は、ひとりの天狗を小脇に抱えて駈け出した。[#地付き](明治37・11)

     (三)鼓子花

 午後三時頃、白河《しらかわ》停車場前の茶店に休む。隣りの床几《しょうぎ》には二十四、五の小粋な女が腰をかけていた。女は茶店の男にむかって、黒磯《くろいそ》へゆく近路を訊いている。あるいてゆく積りらしい。
 まあ、ともかくも行ってみようかと独り言を云いながら、女は十銭の茶代を置いて出た。
 茶屋女らしいねと私が云えば、どうせ食詰者《くいつめもの》でしょうよと、店の男は笑いながら云った。
 夏の日は暑い。垣の鼓子花《ひるがお》は凋《しお》れていた。[#地付き](明治39・8)

     (四)唐辛

 日光の秋八月、中禅寺《ちゅうぜんじ》をさして旧道をたどる。
 紅い鳥が、青い樹間《このま》から不意に飛び出した。形は山鳩に似て、翼《つばさ》も口嘴《くちばし》もみな深紅《しんく》である。案内者に問えば、それは俗に唐辛《とうがらし》といい、鳴けば必ず雨がふるという。
 鳥はたちまち隠れてみえず、谷を隔ててふた声、三声。われわれは恐れて路を急いだ。
 仲の茶屋へ着く頃には、山も崩るるばかりの大雨《おおあめ》となった。[#地付き](明治43・8)

     (五)夜泊の船

 船は門司《もじ》に泊《かか》る。小春の海は浪おどろかず、風も寒くない。
 酒を売る船、菓子を売る船、うろうろと漕ぎまわる。石炭をつむ女の手拭が白い。
 対岸の下関《しものせき》はもう暮れた。寿永《じゅえい》のみささぎはどの辺であろう。
 なにを呼ぶか、人の声が水に響いて遠近《おちこち》にきこえる。四面のかかり船は追いおいに灯を掲げた。すべて源氏の船ではあるまいか。わたしは敵に囲まれたように感じた。[#地付き](明治39・11)

     (六)蟹

 遼陽城外、すべて緑楊《りょくよう》の村である。秋雨《あきさめ》の晴れたゆうべに宿舎の門《かど》を出ると、斜陽は城楼の壁に一抹《いちまつ》の余紅《よこう》をとどめ、水のごとき雲は喇嘛《ラマ》塔を掠《かす》めて流れてゆく。
 南門外は一面の畑で、馬も隠るるばかりの高梁《コウリャン》が、俯しつ仰ぎつ秋風に乱れている。
 村落には石の井《いど》があって、その辺は殊に楊《やなぎ》が多い。楊の下には清《しん》国人が籃《かご》をひらいて蟹《かに》を売っている。蟹の
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