出る、兎《うざぎ》が出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒に笊《ざる》を持って花を摘みに行ったことを微《かす》かに記憶している。その草叢《くさむら》の中には、ところどころに小さい池や溝川《どぶがわ》のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
 蟹《かに》や蜻蛉《とんぼ》もたくさんにいた。蝙蝠《こうもり》の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋《わらじ》を提《さ》げて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹|竿《ざお》を持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞《うんか》の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩《たた》き落すと、五分か十分のあいだに忽《たちま》ち数十匹の獲物《えもの》があった。今日《こんにち》の子供は多寡《たか》が二|疋《ひき》三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
 きょうは例の赤とんぼ日和《びより》であるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先に泛《う》かんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。

     茶碗

 O君が来て古い番茶茶碗を呉《く》れた。おてつ牡丹餅《ぼたもち》の茶碗である。
 おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店《かどみせ》で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢《おおぜい》集まって来る。その傍《わき》に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
 おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。眉《まゆ》を落して歯を染めた、小作りの年増《としま》であった。聟《むこ》を貰《もら》ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児《こ》を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の稚《おさな》い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が栽《う》えてあって、その
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