た。死んだ後には「清い尼」として立派な碑を建てられた。かれは実に清い女であった。しかし将門の娘は不幸なる「清い尼」では無かったろうか。
「塩竈街道に白菊植えて」と、若い男が唄って通った。尼も塩竈街道に植えられて、さびしく咲いて、寂しく萎《しぼ》んだ白菊であった。

 これは比較的に有名な話で、今さら紹介するまでも無いかも知れないが、将門の娘と同じような運命の女だと云うことが、わたしの心を惹いた。
 松島の観音堂のほとりに「軒場《のきば》の梅」という古木がある。紅蓮尼《こうれんに》という若い女は、この梅の樹のもとに一生を送ったのである。紅蓮尼は西行《さいぎょう》法師が「桜は浪に埋もれて」と歌に詠んだ出羽国象潟《でわのくにきさがた》の町に生まれた、商人《あきうど》の娘であった。父という人は三十三ヵ所の観音|詣《もう》でを思い立って、一人で遠い旅へ迷い出ると、陸奥《むつ》松島の掃部《かもん》という男と道中で路連れになった。掃部も観音詣での一人旅であった。二人は仲睦まじく諸国を巡礼し、つつがなく故郷へ帰ることになって、白河の関で袂《たもと》を分かった。関には昔ながらの秋風が吹いていたであろう。
 その時に、象潟の商人は尽きぬ名残《なごり》を惜しむままに、こういう事を約束した。私には一人の娘がある、お前にも一人の息子があるそうだ。どうか此の二人を結び合わせて、末長く睦《むつ》み暮らそうではないか。
 掃部も喜んで承諾した。松島の家へ帰り着いてみると、息子の小太郎《こたろう》は我が不在《るす》の間に病んで死んだのであった。夢かとばかり驚き歎いていると、象潟からは約束の通りに美しい娘を送って来たので、掃部はいよいよ驚いた。わが子の果敢《はか》なくなったことを語って、娘を象潟へ送り還そうとしたが、娘はどうしても肯《き》かなかった。たとい夫たるべき人に一度も対面したことも無く、又その人が已《すで》に此の世にあらずとも、いったん親と親とが約束したからには、わたしは此の家の嫁である、決して再び故郷へは戻らぬと、涙ながらに云い張った。
 哀れとも無残とも云いようがない。私はこんな話を聞くと、身震いするほどに怖ろしく感じられてならない。わたしは決してこの娘を非難《ひなん》しようとは思わない。むしろ世間の人並に健気《けなげ》な娘だと褒めてやりたい。しかもこの可憐の娘を駆っていわゆる「健気な娘」
前へ 次へ
全204ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング