屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である。

     お染風

 この春はインフルエンザが流行した。
 日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗《しょうけつ》になった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風《そめかぜ》と云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議《せんぎ》すると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。
 そこで、お染という名を与えた昔の人の料簡《りょうけん》は、おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松《ひさまつ》に惚れたように、すぐに感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染に限らない。お夏《なつ》でもお俊《しゅん》でも小春《こはる》でも梅川《うめがわ》でもいい訳であるが、お染という名が一番|可憐《かれん》らしくあどけなく聞える。猛烈な流行性をもって往々に人を斃《たお》すような此の怖るべき病いに対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗《すこぶ》るおもしろい対照である、さすがに江戸っ子らしいところがある。しかし、例の大《おお》コレラが流行した時には、江戸っ子もこれには辟易《へきえき》したと見えて、小春とも梅川とも名付け親になる者がなかったらしい。ころり[#「ころり」に傍点]と死ぬからコロリだなどと知恵のない名を付けてしまった。
 すでに其の病いがお染と名乗る以上は、これに※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入《ちんにゅう》を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいと云うことになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論《もちろん》、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として、昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽《あお》って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
 
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