で、私たちは勝手に宿所を探さなければなりません。空家へはいったり、古廟《こびょう》に泊まったり、時には野宿することもありました。草原や畑に野宿していると、夜半から寒い雨がビショビショ降り出して来て、あわてて雨具をかぶって寝る。こうなると、少々心細くなります。鬼が出るという古廟に泊まると、その夜なかに寝相《ねぞう》の悪い一人が関羽《かんう》の木像を蹴倒《けたお》して、みんなを驚かせましたが、ほかには怪しい事もありませんでした。鬼が出るなどと云い触らして、土地のごろつきどもの賭場《とば》になっていたらしいのです。
食事は監理部へ貰《もら》いに行って、米は一人について一日分が六合、ほかに罐詰などの副食物をくれるのですが、時には生きた鷄《とり》や生《なま》の野菜をくれることがある。米は焚《た》かなければならず、鷄や野菜は調理しなければならず、三度の食事の世話もなかなか面倒でした。私たちは七人が一組で、二人の苦力《クーリー》を雇っていましたが、シナの苦力は日本の料理法を知らないので、七人の中から一人の炊事当番をこしらえて、毎日交代で食事の監督をしていました。煮物をするにはシナの塩を用い、或いは醤油エキスを水に溶かして用いました。砂糖は監理部で呉れることもあり、私たちが町のある所へ行って買うこともありました。
苦力の日給は五十銭でしたが、みな喜んで忠実に働いてくれました。一人は高秀庭《こうしゅうてい》、一人は丁禹良《ていうりょう》というのでしたが、そんなむずかしい名を一々呼ぶのは面倒なので、わたしの考案で一人を十郎《じゅうろう》、他を五郎《ごろう》という事にしました。この二人が「新聞記者雇苦力、十郎、五郎」と大きく書いた白布を胸に縫い付けているので、誰の眼にも着き易く、往来の兵士らが面白半分に「十郎、五郎」と呼ぶので、二人もいちいちその返事をするのに困っているようでした。苦力の曾我《そが》兄弟はまったく珍しかったかも知れません。
東京へ帰ってから聞きますと、伊井蓉峰《いいようほう》の新派一座が中洲《なかず》の真砂座《まさござ》で日露戦争の狂言を上演、曾我兄弟が苦力に姿をやつして満洲の戦地へ乗り込み、父の仇《かたき》の露国将校を討ち取るという筋であったそうで、苦力の五郎十郎が暗合《あんごう》しているには驚きました。但《ただ》し私たちの五郎十郎は正真正銘の苦力で、かたき討など
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