がお玉さんの庭の板塀と丁度むかい合いになった。わたしの家の者が徳さんと顔を見合せる機会が多くなった。それでも両方ながら別に挨拶もしなかった。その時はわたしが徳さんの清元を聴いてからもう四、五年も過ぎていた。
その年の秋に強い風雨《あらし》があって、わたしの家の壁に雨漏りの汚点《しみ》が出た。たいした仕事でもないから近所の人に頼もうと云うことになって、早速徳さんを呼びにやると、徳さんは快《こころよ》く来てくれた。多年近所に住んでいながら、わたしの家で徳さんに仕事を頼むのはこれが初めてであった。わたしはこの時はじめて徳さんと正面にむき合って、親しく彼と会話を交換《かわ》したのであった。
徳さんはもう四十を三つ四つ越えているらしかった。髪の毛の薄い、色の蒼黒い、眼の嶮《けわ》しい、頤《あご》の尖《とが》った、見るから神経質らしい男で、手足は職人に不似合いなくらいに繊細《かぼそ》くみえた。紺の匂いの新しい印半纏をきて、彼は行儀よくかしこまっていた。私から繕《つくろ》いの注文をいちいち聞いて、徳さんは丁寧に、はきはきと答えた。
「あんな人がなぜ近所と折合いが悪いんだろう。」
徳さんの帰ったあとで、家内の者はみんな不思議がっていた。あくる日は朝早くから仕事に来て、徳さんは一日黙って働いていた。その働き振りのいかにも親切なのが嬉しかった。今どきの職人にはめずらしいと家内の評判はますますよかった。多寡が壁の繕いであったから、仕事は三日ばかりで済んでしまった。
徳さんは勘定を受取りにくる時に、庭の青柿の枝をたくさん切って来てくれて、「渋くってとても食べられません、花活けへでもお挿しください。」と云った。
なるほど粒は大きいが渋くって食えなかった。わたしは床の間の花瓶に挿した。
「妹はこの頃どんな塩梅《あんばい》ですね。」と、そのとき私はふいと訊《き》いてみた。
「お蔭さまでこの頃はだいぶ落ちついているようですが、あいつのこってすから何時あばれ出すか知れやあしません。しかしあいつも我儘《わがまま》者ですから、なまじっかの所へ嫁なんぞに行って苦労するよりも、ああやって家で精いっぱい威張り散らして終る方が、仕合せかも知れませんよ。」と、徳さんは寂しく笑った。「おふくろも丁度あんな人間ですから、みんな血を引いているんでしょうよ。」
それからだんだんに話してみると、徳さんは妹のこと
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