西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
 男湯と女湯とのあいだは硝子《ガラス》戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。

     紙鳶

 春風が吹くと、紙鳶《たこ》を思い出す。暮れの二十四、五日ごろから春の七草《ななくさ》、すなわち小学校の冬季休業のあいだは、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国《やすくに》神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によってほとんど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐって往来したくらいであった。暮れの二十日頃になると、玩具《おもちゃ》屋駄菓子店などまでがほとんど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人《いちあきうど》のような小屋掛けの紙鳶屋が出来た。印半纒《しるしばんてん》を着た威勢のいい若い衆の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら鳴弓《うなり》を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙がしい。その店には、少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
 紙鳶は種類もいろいろあったが、普通は字紙鳶《じだこ》、絵紙鳶、奴《やっこ》紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては子供には手が付けられなかった。二枚半以上の大《おお》紙鳶は、職人か、もしくは大家《たいけ》の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供《おおども》小供《こども》入り乱れて、到るところに糸を手繰《たぐ》る。またその間に娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、かっかっという羽子《はご》の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷は寂々寥々《せきせきりょうりょう》。往来で迂闊《うかつ》に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
 寒風に吹き晒《さら》されて、両手に胼《ひび》を切らせて、紙鳶に日を暮らした三十年前の子供は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻《えりまき》をして、帽子をかぶって、マントにくるまって懐《ふとこ》ろ手をして、無意味にうろうろ[#「うろうろ」に傍点]している今の子供は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。

     獅子舞

 獅子《しし》というものも甚だ衰えた。今日《こんにち》でも来るには来るが、いわゆる一文獅子《いちもんじし》というものばかりで、ほんとうの獅子舞はほとんど跡を断った。明治
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