青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした心持になって、何だかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということが、私の頭をいろいろに動かしているのであった。
「それにしても、お玉さんはどうしているだろう。」
わたしは徳さんの死から惹《ひ》いて、その妹のお玉さんの悲しい身の上をも考えさせられた。
お玉さんは親代々の江戸っ児で、阿父《おとっ》さんは立派な左官の棟梁《とうりょう》株であったと聞いている。昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり広くもない路地の角に住んでいた。わたしの父はその路地の奥のあき地に平家《ひらや》を新築して移った。お玉さんの家は二階家で、東の往来にむかった格子作りであった。あらい格子の中は広い土間になっていて、そこには漆喰《しっくい》の俵や土舟《つちぶね》などが横たわっていた。住居の窓は路地のなかの南にむかっていて、住居につづく台所のまえは南から西へ折りまわした板塀に囲まれていた。塀のうちには小さい物置と四、五坪の狭い庭があって、庭には柿や桃や八つ手のたぐいが押しかぶさるように繁り合っていた。いずれも庭不相当の大木であった。二階はどうなっているか知らないが、わたしの記憶しているところでは、一度も東向きの窓を明けたことはなかった。北隣りには雇い人の口入屋《くちいれや》があった。どういうわけか、お玉さんの家《うち》とその口入屋とはひどく仲が悪くって、いつも喧嘩が絶えなかった。
わたしが引っ越して来た頃には、お玉さんの阿父さんという人はもう生きていなかった。阿母《おっか》さんと兄の徳さんとお玉さんと、水入らずの三人暮らしであった。
阿母さんの名は知らないが、年の頃は五十ぐらいで、色の白い、痩形で背のたかい、若いときには先ず美《い》い女の部であったらしく思われる人であった。徳さんは二十四、五で、顔付きもからだの格好も阿母さんに生き写しであったが、男としては少し小柄の方であった。それに引きかえて妹のお玉さんは、眼鼻立ちこそ兄さんに肖《に》ているが、むしろ兄さんよりも大柄の女で、平べったい顔と厚ぼったい肉とをもっていた。年は二十歳《はたち》ぐらいで
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