風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯《せんとう》とか湯屋《ゆうや》とかいうのが普通で、元禄《げんろく》のむかしは知らず、文化文政《ぶんかぶんせい》から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
 湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
 五月節句の菖蒲《しょうぶ》湯、土用のうちの桃《もも》湯、冬至の柚《ゆず》湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止《や》められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
 むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方《さんぼう》が据えてあって、客の方では「お拈《ひね》り」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰《き》するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをす
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