人でないことはいよいよ確かめられた。
栄之丞がなぜそんな嘘をつくのか、二人にも判らなかった。なんにしても花魁の怒るのは無理もないと思った。くやしがって癪をおこすはずだと思った。しかし、そんなことを評議している場合でない。次郎左衛門は茶屋に待っている。いつまでも沙汰なしにしておいて、機嫌を損じては悪いと思ったので、浮橋と掛橋は取りあえず仲の町へ行った。出がけに掛橋は禿を叱った。
「お前がよけいな告げ口をしなんすから、こんなことにもなるのでおざんす。これからはちっと口を慎みなんし」
わたし達がいないあいだは、花魁の枕もとへ行っておとなしく坐っていろ、何か変った事があったら直ぐに遣手《やりて》衆を呼べ。いうことを肯《き》かないと、約束の蜜柑《みかん》も買ってやらない、羽根も買ってやらないと、掛橋はきびしくおどしつけて出て行った。出ると、店口で立花屋の女中に逢った。彼女は待ちかねて二度の迎いに来たのであった。
二人は女中と一緒に立花屋へ行って、花魁が急病の話をすると、女房もおどろいた。そこで相談の上で、八橋の病気がもう少し納まるまで浮橋だけが茶屋に残っていて、いい頃を見て掛橋自身が迎いに来るか、禿を使いによこすか、それまでもう少し待っていて貰いたいということになった。女房も承知した。掛橋も二階へ顔をちょっと出して、気の毒そうにその訳をことわって行った。次郎左衛門は掛橋にも十五両やった。
掛橋が二階を降りると、やがてそのあとから便所へ起つ振りをして、治六も降りた。彼はすぐに茶屋を駈け出して、江戸|町《ちょう》の角で掛橋に追いついた。
「八橋花魁、よっぽど悪いのかね。もしよくねえようだったら、無理に我慢して迎いをよこすことはいらねえ。きょうは引っ返してもいいんだから」
「馬鹿らしい」と、掛橋は笑った。たとい花魁の病気が納まらないとしても、茶屋からすぐに帰る法はない。こっちでも帰されるものでない。ともかくも一旦兵庫屋へ来て、花魁の様子を見届けて、ほかの座敷であっさりと飲んで、それから帰るとも名代《みょうだい》を買うとも勝手にするがいい。花魁の容態の善悪にかかわらず、もう一度必ず迎いに来るから、それまでおとなしく待っていてくれと言った。そうして、彼女は「おお、寒」と、袖をかき合わせて駈けて行ってしまった。
治六は詰まらない顔をして仲の町の曲がり角に突っ立っていた。八橋の病気というのを幸いに、彼は日のあるうちに主人を連れて帰ろうと思ったのであるが、そんな浅薄《あさはか》なくわだては「馬鹿らしい」の一言に破壊された。
自分の相方の浮橋は茶屋の二階に来ているのであるが、彼はそんなことに係り合いのないようにぼんやりと考えていた。
主人は八橋にもう二百両やった。新造二人に十五両ずつやった。まだやらないが、茶屋の女房にも女中にもきっとやるに相違ない。まずあしたの朝日を拝むまでに、あわせて三百両は朝の霜のように消えてしまうものと思わなければならない。千両の三分の一はもうなくなる――こう思うと、治六は肉をそがれるように情けなかった。それでも、あしたの朝すぐに帰ればいい、もしまた未練らしくぐずぐずしていたら、きょう持って来た五百両はみんな飛んでしまう。おとなしくここまでは付いて来たものの、彼はもう主人の胸倉を掴んで引き摺って帰りたいようにもいらいら[#「いらいら」に傍点]して来た。
背中合せの松飾りはまだ見えなかったが、家々の籬《まがき》のうちには炉を切って、新造や禿《かむろ》が庭釜の火を焚《た》いていた。その焚火の煙りが夕暮れの寒い色を誘い出すように、籬を洩れて薄白く流れているのも、あわただしいようで暢《のび》やかな廓の師走らしい心持ちを見せていた。治六は煙りのゆくえを見るともなしに眺めていた。寒い風が彼の小鬢《こびん》を吹いた。
五
その頃の大音寺まえは人の家もまばらであった。枯れ田を渡る夜の風は茅《かや》屋根の軒を時どきにざらざら[#「ざらざら」に傍点]なでて通って、水谷《みずのや》の屋敷の大池では雁《がん》の声が寒そうにきこえた。
栄之丞が堀田原から帰った時には冬の日はもう暮れていた。妹のお光《みつ》の給仕で夕飯を食ってしまうと、高い空には青ざめた冷たい星が二つ三つ光って、ここらの武家屋敷も寺も百姓家も、みんな冬の夜の暗闇《くらやみ》の底に沈んでしまった。遠い百姓家に火の影がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺らいで、餅を搗《つ》く音が微かに調子を取って響くほかには、ここらに春を待っている人もありそうにも思われない程に、ひっそりと静まり返っていた。栄之丞の兄妹《きょうだい》も春を待っている人ではなかった。
「今も言うような訳だが、どうだ、その家《うち》へ奉公に行って見ては……」と、栄之丞はうす暗い行燈の下にうつ向いている妹に優しく言った。
彼が堀田原の知りびとをきょう訪ねたのも、その用向きであった。妹のお光ももう明ければ十八になる。年頃の娘を浪々の兄の手もとにおいて、世帯《しょたい》やつれをさせるのも可哀そうだと思って、彼は妹のために然るべき奉公口を探していた。なるべく武家奉公をと望んでいたのであるが、どうも思わしい口が見つからなかった。しかし町家ならば相当の口があると、その人が親切に言ってくれた。町人といっても、人形町《にんぎょうちょう》の三河屋という大きい金物問屋で、そこのお内儀《かみ》さんがとかく病身のために橋場《はしば》の寮に出養生をしている。台所働きの下女はあるが、ほかに手廻りの用を達《た》してくれる小間使いのような若い女がほしい。年頃は十七、八で、あまり育ちの悪くない、行儀のよい、おとなしい娘がほしいというのである。別に忙がしいというほどの用もない、給金はまず一年一両二分と決めておいて、当人の辛抱次第で着物の移り替えその他の面倒も見てやる。もし長年《ちょうねん》するようならば、嫁入りの世話までしてやってもいいというので、まず結構な奉公口である。そこへ妹をやってはどうだと勧められて、栄之丞も考えた。
浪々しても宝生なにがしの妹を町家の奉公には出したくない。たとい小身《しょうしん》でも陪臣《ばいしん》でも、武家に奉公させたいと念じていたのであるが、それも時節で仕方がない、なまじいに選り好みをしているうちに、だんだんに年が長《た》けてしまっても困る。何もこれが嫁にやるという訳でもない、長くて二年か三年の奉公である。こういう奉公口を取りはずして後悔するよりも、いっそ思い切ってやった方がよかろうと決心して、何分よろしく頼むと挨拶して帰って来た。
帰ってゆっくりとその話をすると、お光にも別に故障はなかった。
「兄《にい》さまさえ御承知ならば、わたくしは何処へでもまいります」
すなおな妹の返事を聞くと、栄之丞も何だかいじらしいような暗い心持ちになった。自分がまじめに家《いえ》の芸を継いでいれば、家には相当の禄も付いている。貧乏しても奉公人の一人ぐらいは使っていられるのに、今はその妹が却って町人の家へ奉公に行く。妹にはなんの罪もない。悪い兄をもったのが禍いである。結構な口を見付けたといいながらも、兄の心はやっぱり寂しかった。
「わたくしが居なくなりますと、兄さまおひとりではさぞ御不自由でございましょう」と、お光も寂しそうに言った。
「いや、こっちはわたしひとりでもどうにかなる。結構な主人といったところで、どうで奉公、楽なわけにも行くまい。まあ辛抱しろ」
「それで、いつから参るのでございます」
「さあ、いつと決めて来たわけでもないが、むこうも歳暮《くれ》から正月にかけて人出入りも多かろうし、なるべく一日も早いがいいだろう。お前の支度さえよければ、あしたにでも目見得《めみえ》に連れて行こう」
お光はもう一日待ってくれと言った。目見得に行くといっても碌な着物も持っていない。いま縫いかけている春着はあしたでなければ仕立てあがらないから、どうかあさってに延ばしてもらいたいと言った。栄之丞も承知した。約束さえ決めて置けば一日ぐらいはどうでも構わないと言った。それにしても気が急《せ》くので、お光は夜業《よなべ》で裁縫に取りかかった。
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――心弱しや白真弓《しらまゆみ》、ゆん手にあるは我が子ぞと、思い切りつつ親心の、闇打ちにうつつなき、わが子を夢となしにけり――
[#字下げ終わり]
栄之丞は柱に倚《よ》りかかって、小声で仲光《なかみつ》を謡っていた。寒そうな風が吹いて通った。堤へ急ぐらしい駕籠屋の掛け声がきこえた。うす暗い行燈の片明かりをたよりとして、お光はしきりに針を急がせていた。
今の栄之丞には妹に春着を買ってやるような余裕はなかった。お光がいま縫っているのは、先月の末に八橋から送ってよこしたものであった。八橋はお光も識っていた。栄之丞の妹といえば自分の妹も同様であるというので、彼女は今までにもお光にいろいろの物を送ってくれた。くるわの年季があければ八橋は自分の姉になるものとお光も思っていた。粗末ではあるが春着にでもと送ってくれた一反《いったん》の山繭《やままゆ》が、丁度お目見得の晴着となったのであった。いくら奉公でも若い女が着のみ着のままでは目見得にも行かれない。これもみんな八橋のお庇《かげ》であると、お光は今更のように有難がっていた。
それが今の栄之丞には心苦しく思われてならなかった。彼は八橋と縁を切りたいと思っていた。この夏の初めに八橋から使いが来て、少し用があるから是れから直ぐに来てくれとのことであった。
昼の九つ(十二時)過ぎで、栄之丞は夏の日を編笠によけながら出て行くと、八橋の座敷には次郎左衛門が流連《いつづけ》をしていた。彼女は栄之丞にささやいて、次郎左衛門には自分の従弟《いとこ》であるように話してあるから、お前はそのつもりで逢ってくれ。きっと幾らかの金をくれるに相違ないと言った。栄之丞は面白くなかった。いやだと振り切って帰ろうとするのを、八橋はしきりに止めた。彼は渋々ながら次郎左衛門に引き合わされて、八橋が注文通りの嘘をついてしまった。相手は別に疑うような顔を見せないで、近づきのしるしにといって百両の金を惜し気もなしにくれたが、栄之丞は恐ろしくて手が出せなかった。いくら自堕落に身を持ち崩しても、彼は決して腹からの悪人ではなかった。八橋が思うように、ひとを欺《だま》して平気ではいられなかった。ましてこれが三両や五両ではない、この時代において大枚《たいまい》百両の金をひとから欺して取ろうなどとは、彼として思いもつかないことであった。栄之丞はたって辞退してその金を受取らなかった。
彼がその金を断わったのは、ひとを欺すことのできない彼の正直な心から出たのでもあったが、もう一つ彼を恐れさせたのは、次郎左衛門その人の容貌と態度とであった。案外に正直らしい、鷹揚《おうよう》な、しかもその底には怖ろしい野性がひそんでいるらしい彼の前に曳き出された時に、栄之丞は言い知れぬ怖れを感じた。ひとを欺《だま》すことのできない彼は、いよいよこの人を欺すことを怖ろしく感じたのであった。
「ぬしも気が弱い。なぜあの金を断わってしまいなんしたえ」
八橋はあとで失望したように言った。
「いや、あの人を欺すのは悪い。ああいう人を欺すと殺されるぞ」と、栄之丞はおびえたように言った。八橋はただ笑っていた。
その以来、栄之丞は八橋に近づくことがなんだか忌《いや》になって来た。いかにひとを欺すのが商売でも八橋の仕方は余りに大胆だと思った。一面からいえば、あまりに残酷だとも思った。廓《くるわ》の水に染みると、こうも冷たい心にもなるものかと、彼はそぞろに怖ろしくもなった。それから惹《ひ》いて次郎左衛門の恨みを買うことを怖ろしかった。彼は相変らず八橋を懐かしいものに思いながらも、以前のように足近くかよって行く気にはなれなかった。それと同時に、彼はもう少しまじめになって、女を頼らずに生きてゆく方法を考えなければならないと思い立った。
それからいろいろに奔走して、この冬の初めから謡いの出稽古の口を見つけ出した
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