んだ。それは確かに頼みました。しかし佐野の身代の潰れたことまで吹聴《ふいちょう》して貰おうとは思わなかった。そこに念を押して置かなかったのが私の手落ちであったが、わたしはただ何と付かずにお前さんから八橋を請け出して、こっちへ渡して貰おうと思っていたのだ。それは手前勝手に相違ない。わたしもそれを百も承知しているから、大《だい》の男が手をさげてお頼み申したのだ。否《いや》なら否だと何故《なぜ》きっぱり断わっておくんなさらない。愚痴を言うようだが、わたしは恨みに思いますよ」
恨まれては迷惑である。なんだか怖ろしくもある。栄之丞も一応の言い訳をしないではいられなかった。
「いや、お言葉ではございますが、当節のわたくしに何百両という金の才覚の届こう筈はございません。それは八橋もよく知っております。金の出どころ、身請け人の身許を正直に打明けませんでは、とても得心いたすまいと存じまして……」
「それはよろしい。判っています。身請けの相手が次郎左衛門ということを隠して下さるには及ばない。しかし次郎左衛門の身代の潰れたことまでは……。いや、それもどうで遅かれ早かれ知れることで、秘し隠しにしようとするのは卑怯というもの。わたしが自身の口からは言いにくいことを、いっそあなたが打明けて下されば却って仕合せかも知れません。今のは言い過ぎで、どうぞ悪しからず思ってください」
案外にもろく折れられて、栄之丞もほっ[#「ほっ」に傍点]とした。次郎左衛門はふいと、こう言い出した。
「そこで、栄之丞さん。わたしの方でも卑怯なことはやめにして、こうして三人|三鼎《みつがなえ》で何もかも打明けて相談することにしましょうから、あなたの方でも卑怯なことは止して下さい。これからも末長くおつきあいを願おうと思っているのに、お互いに仇同士のような料簡をもっていては、どうも面白くありませんからね。この次郎左衛門に意趣遺恨があったら、どうぞ遠慮なしに真正面《まとも》からぶつかって来て下さい。ようござんすか。なんでもまともから男らしく……薄っ暗い所で卑怯な真似をしないで」
奥歯に物の挟まった言いようである。自分は次郎左衛門に対して、薄暗い所で卑怯な真似をした憶えはない。それには何か思い違いがあるに相違ないと栄之丞は思った。誰に対しても、自分が恨まれているというのは快《こころよ》くないことであるが、取り分けてこの次郎左衛門に恨まれているというのは栄之丞に取って甚だ快くなかった。むしろ薄気味の悪いように感じられてならなかった。彼は自分が卑怯な真似をしたという説明を彼からも聞き、また自分からも弁解したかった。
「今うけたまわりますと、何か私が卑怯なことでも致したようにも聞えますが、それは何かのお考え違いで、わたくしはあなたに対して……」
次郎左衛門は杯をおいて、凄い眼でじっとこっちを睨み詰めているので、栄之丞は中途で臆病らしく口をつぐんだ。
「やかましい」と、次郎左衛門はだしぬけに呶鳴り付けた。「卑怯だから卑怯だと言ったのがどうした。やい、生《い》けしゃあしゃあとした面《つら》をするな。この間の晩、大音寺前から次郎左衛門のあとを付けて来たのは誰だ。うしろから抜き身を振り廻しゃあがったのは何処のどいつだ。すぐに引っ返して行って踏み殺してやろうと思ったが、きょうまで命を助けて置いてやったのだ。さあ、次郎左衛門に意趣遺恨があるなら、まともに向いてかかって来い」
その権幕が余りに烈しいので、栄之丞は煙《けむ》にまかれた。彼の言うことは何が何だかちっとも判らなかった。栄之丞は呆気《あっけ》に取られて弁解をするすべもなかった。
「全体おもしろくもねえ野郎だと思ったが、おとなしいのを取得《とりえ》に今まで可愛がって置いてやったのだ。それになんだ、柄にもねえ光る物なんぞを振り廻しゃあがって……。この次郎左衛門はこれまでに幾たびとなく血の雨を浴びて来た男だ。貴様たちの鈍刀《なまくら》がなんだ、白痴《こけ》が秋刀魚《さんま》を振り廻すような真似をしやあがったって、びくともするんじゃあねえぞ。もうこうなったら貴様なんぞに用はねえ、身請けの相談もなんにも頼まねえ。そんな面は見たくもねえから、早くけえれ」
次郎左衛門はつづけて呶鳴りつけた。彼の濃い眉は毛虫のようにうねって、その大きい眼は火のように燃えていた。この怒れる獅子に対して、栄之丞は哀れな小兎であったが、それでも彼は一生懸命に言い訳をしようと努めた。
「それは思いも寄らない儀で、私があなたを闇撃ちにしようとしたなどとは……。夢にも憶えのないことで、それは大方人違いかと……」
次郎左衛門はただ黙ってあざ笑っていた。
「さような御無体《ごむたい》を申し掛けられましては……」
「よし、よし。もうなんにも言うことはねえ。こっちでももう聴かねえから、黙ってけえれ。ただひとこと言って聞かして置くが、八橋はもう貴様の起請を灰にしてしまったぞ」
今度は栄之丞の方が蒼くなった。膝の上についている彼の指さきはぶるぶると顫《ふる》えた。いかに遠ざかろうとしている女の前でも、自分の競争者の口からこの残酷な宣告を受けては、栄之丞の素直な心にも相当の弾力をもたなければならなかった。彼は正面の敵から眼をそらして、斜《はす》に女の方を見かえると、八橋は俯向いてなんにも言わなかった。頭を垂れているので、その顔の色は読めなかった。
それでも栄之丞は素直であった。素直というよりもむしろ男らしいというのかも知れないが、もうこの上は、何を言うのも無駄であると彼は考えた。野獣の怒ったような次郎左衛門を相手にして、いつまでとやこうと言い争っても果てしがない。ここで女の薄情を責めても始まらない。こういう不快な、そうして危険な場所からは、ちっとも早く立ち退いてしまった方が無事であると考えた。
むこうで帰れというのをしおに、栄之丞はおとなしく挨拶して起ちかかると、次郎左衛門は紙入れから一両を十枚出した。
「おい。さっき聴いていりゃあ、十両の金が要るとかいって、八橋に無心を言っていたようだったね。さあ、十両はおれがやる。その代りに八橋の起請を置いて行くがいい」
ここで持っていないと言うのは余り卑怯だと思って、栄之丞は掛守《かけまもり》から女の起請を取り出した。彼はせめてもの腹癒せに、次郎左衛門の眼の前でずたずた[#「ずたずた」に傍点]に引き裂いて見せた。
芝居のようなこの場は、これで終った。
栄之丞は黙って起ち上がると、次郎左衛門はうしろから声をかけた。
「おい、栄之丞さん。この金を持って行かねえのか」
聞かない振りをして彼は廊下へ出た。次の間にいた浮橋も気の毒なような、困った顔をして、これも黙って送って来た。栄之丞が二階の階子《はしご》を降りようとする時に、あとから八橋がそっと追って来た。
「みんなあとで判ることでありんす」
彼女は紙につんだ十両を男の手に掴ませた。いっそ叩き返そうと思っても、その手さきは女にしっかり握られているので、栄之丞はどうすることも出来なかった。彼はくすぐったいような心持ちで、とうとうその金をふところに収めて出た。
堤《どて》へあがると、うすら寒い風はいつしか凪《な》いで、紫がかった箕輪田圃《みのわたんぼ》の空に小さい凧《たこ》の影が二つ三つかかっていた。堤したの田川の水も春の日に輝いて、小鮒《こぶな》をすくっている子供の網までがきらきらと光って見えた。稽古のために空駕籠を担いで、長い堤を往ったり来たりしている駕籠屋のひたいにも、煙りの出そうな汗が浮いていた。
「寒いようでも、もう春だ」と、栄之丞もふと思った。
そう思いながらも、彼は春らしいのびやかな気分にはとてもなれなかった。懐中《ふところ》にしている十両の金が馬鹿に重いように思われてならなかった。この十両を手切れがわりに貰ったのかと思うと、彼は言うに忍びない屈辱を蒙ったようにも感じた。くやし涙がおのずと湧いて来た。
闇撃ち――飛んでもないことを言うと、彼は次郎左衛門の無法におどろいた。八橋と言い合わせて、おれと手を切るためにわざとあんな無法な言いがかりをしたのではないかとも疑った。こうと知ったら、きょうは廓へ来るのではなかったものをと、彼は今更のように後悔した。
自分の方から遠ざかろうとしていながら、女の不実を責めるのは手前勝手かも知れないが、八橋が起請を灰にしたということは、どう考えても腹立たしかった。自分が今まで欺かれていたようにくやしく思われた。その女の手からなぜこの金を受取って来たのであろう。なぜ女のひたいに叩き付けて来なかったのであろうと、栄之丞は自分の弱い心を自分で罵り恥ずかしめたかった。
「お光も可哀そうだ」
彼はまた思い返した。
意気地《いくじ》なしと言われても、弱虫とあざけられても仕方がない。ともかくも目的の通りに金の才覚ができた以上は、早くこれを橋場へ届けて妹に安心させてやろうと思った。妹もおれのためには随分苦労している。せめてこういう時には兄甲斐《あにがい》のあるようにしてやらなければならないと、彼は妹が可愛さに一時の不平を抑えて、すぐに橋場の奉公さきへ急いで行った。
十四
三月になって絹糸のような雨が二、三日ふりつづいた。馬喰町の佐野屋の二階から見おろすと、隣りの狭い庭に一本の桃の花が真っ紅《か》に濡れて見えた。どこかで稽古三味線《けいこじゃみせん》の音が沈んできこえた。なま暖かいひと間の空気に倦《う》んで、次郎左衛門は障子を少しあけていたが、やがて又ぴっしゃりと閉め切って古びた手あぶりの前に坐って、小さい鉄瓶の口から軽く噴く湯煙りのゆくえを見つめていた。
座敷の片隅には寝床が延べてあった。先月の末から十日あまりも吉原の三つ蒲団に睡らない彼は、明けても暮れても宿の二階に閉じ籠って、綿の硬いごつごつした衾《よぎ》にくるまって寝るよりほかに仕事はなかった。眼が醒めると酒を注文した。酔うと又すぐに寝てしまった。
こんなことをして冬の蛇のように唯ぼんやりと生きているのは、彼に取って実に堪え難い苦痛であったが、今の彼はもう穴を出る力を失っていた。宿の亭主にあずけておいた五百両も、とうに喧嘩づらで引き出して、二月の中ごろまでには一文も残さずつかった。彼はいよいよ大尽の頭巾《ずきん》をぬいで、唯の旅びとの次郎左衛門になった。仲の町の茶屋にも幾らかの借りも出来た。たとい催促をされないまでも、面《つら》の皮を厚くして乗り込むわけには行かなくなった。初めから判り切っている事ではあるが、彼はその判り切っている路を歩んで、判り切っている最後の行き止まりに突き当った。金がいよいよ無くなったら何とか考えよう――彼はその最後の日まではなんにも考えまいと努めていたが、さていよいよ何とか考えなければならない時節になった。彼はやはりなんにも考えられなかった。
歳《とし》は男盛りである。からだは丈夫である。いざとなれば天秤棒《てんびんぼう》を肩にあてても自分一人の糊口《くちすぎ》はできると多寡をくくっていたものの、何を楽しみにそんな事をして生きて行くのかということを、彼はこの頃になってしみじみと考えさせられた。もうそうなったら八橋には逢えない。おれは八橋と離れて生きてはいられないということが、今さら痛切に感じられて来た。
博奕打ちをやめたのも八橋の意見に基づいたのである。身上《しんしょう》を潰したのも八橋が半分は手伝っている。命と吊り替えというほどの千両を残らず煙《けむ》にしたのも、みんな八橋のためである。この三年このかたの自分は、すべて八橋に操られた木偶《でく》のように動いていたのであった。人形遣いの手を離れて木偶の坊が一人で動ける筈がない。昔の次郎左衛門は知らず、今の次郎左衛門は八橋を離れて動くことのできない約束になっていることを、彼は自分で見極めてしまった。八橋がきっと自分の物になるという保証がつけば、彼は車力にでも土方にでも身を落すかも知れなかったが、そんな望みのないことは彼自身もよく承知していた。
栄之丞の口から佐野の家の没落が発覚したときに、八橋
前へ
次へ
全14ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング