上に出た。物干のあがり口には窓があったが、その窓はもう固く閉められて、はいることは出来なかった。彼は屋根伝いに隣りからとなりへと伏見町の方へ四、五軒逃げた。
 この騒ぎを聞いて栄之丞も茶屋から出ると、狂人のようになって駈けて来る浮橋に出逢った。彼は自分の胸に時どき兆《きざ》していた怖ろしい予覚が現実となって現われたのに驚かされた。彼も大勢と一緒に次郎左衛門のゆくえを見届けに行った。その蒼ざめた顔が大屋根の上に立っている次郎左衛門の眼にはいった。
 次郎左衛門は急に栄之丞を殺したくなった。しかし敵の群がっている往来へ飛び降りることの危険を知っているので、彼は屋根の瓦を一枚引きめくって栄之丞を目がけて投げおろした。それが丁度彼の右の小鬢《こびん》にあたって、若い男の半面は鮮血《なまち》に染められた。偶然に思いも寄らない武器を発見した次郎左衛門は、これを手始めに屋根の瓦をがらがら[#「がらがら」に傍点]と投げおとして、眼の下に群がっている敵を追い払おうとした。下からもその砕けた瓦を拾って投げ返した。
 大門の会所をあずかっている三浦屋四郎兵衛は分別者《ふんべつもの》であった。彼はおくればせに駈け付けて来て、すぐにこの持て余した狼藉者を召捕る法を考え付いた。彼は火消しどもに指図して、屋根へ水を投げ掛けろといった。火消しは龍骨車《りゅうこつしゃ》を挽き出して来て、火がかりをするように屋根を目がけて幾条の瀧をそそぎかけた。みんなも桶などを持って来て、手のとどく限り水を投げかけたので、ぬれた瓦に足をすべらせて、次郎左衛門はとうとう伏見町の河岸へ落ちた。落ちると直ぐに彼は籠釣瓶を腹へ突き立てようとしたが、その手はもう大勢に押さえられて働かすことが出来なかった。
 彼は血走ったまなこで栄之丞はと見廻したが、その顔はそこらに見えなかった。栄之丞はほかの手負《てお》いと一緒に廓内の医者の手当てを受けに連れて行かれていた。

 次郎左衛門の終りはあらためて説くまでもない。彼は千住《せんじゅ》で死罪におこなわれた。八橋ばかりでなく、ほかにも大勢の人を殺したので、彼の首は獄門にかけられた。
 栄之丞のことはよく判らない。その疵がもとで死んだともいい、あるいは次郎左衛門と八橋との菩提を弔うために出家したともいい、ある町家の入り婿になって七十余歳で明和の末年まで生きていたとも伝えられている。お光のことは猶わからない。
 治六が佐野へ帰って、次郎左衛門の姉や親類の眼さきへ突き出したのは、思いも寄らない主人の書置きであった。それと知って、彼がおどろいて江戸へ引っ返したのは、次郎左衛門が入牢《じゅろう》ののちであった。彼は主人の行く末を見とどけて、ふたたび佐野へ泣きに帰った。
 籠釣瓶の刀はあがり物になって、官に没収されてしまった。



底本:「江戸情話集」光文社時代小説文庫、光文社
   1993(平成5)年12月20日初版1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:かとうかおり
2000年6月12日公開
青空文庫作成ファイル:
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