いる。その横町を江戸時代には俗に鬼婆横町と呼び慣わしていた。
 鬼婆という怖ろしい名がどうして起ったかと聞くと、いつの頃のことか知らないが、麹町通りの或る酒屋へ毎夕ひとりの老婆が一合の酒を買いに来る。時刻は暮れ六つの鐘のきこえるのを合図に、雨の夕も風の日もかならず欠かさずに買いに来るので、店の者も自然に懇意になって、老婆を相手に何かの世間話などをするようになったが、かれはこの近所の者であるというばかりで、決して自分の住所を明かさなかった。幾たび訊いても老婆はいつもあいまいな返事をくり返しているので、店の者共もすこしく不審に思って、事を好む一人が或るとき見え隠れにそのあとを付けて行くと、かれは三町目谷の坂下から東へ切れて、かの横町へはいったかと思うと忽ちに姿を消してしまったので、あとをつけて行った者は驚いて帰った。
 その報告を聞いた酒屋ではいよいよ不審をいだいて、老婆が重ねて来たらば更に尾行してその正体を突きとめる手筈をきめていると、かれはその翌日から酒屋の店先にその姿をみせなくなった。その後、三日経っても、五日経っても、老婆は酒を買いに来なかった。かれは自分のあとを付けられたことを覚
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