を投げ与えたままで、ろくろくに見返りもせずに通り過ぎてしまったのであるから、老婆が喜んだか怒ったか、あるいは銭を投げられると共に消え失せてしまったか、それらの事は見届けなかったと彼は言った。
 堀口が声をかけて立寄ると、老婆のすがたは消え失せた。最初の神南は係り合わずに通り過ぎた。十三番目の森積は銭をなげて通った。いずれにしても、この雪のふる宵に、ひとりの老婆が路ばたに坐っていたのは事実である。それが第一におかしいではないかと、一座の人々も言い出した。織衛のせがれ余一郎は念のために見届けに行って来ようかと起ちかかるのを、父は制した。
「まあ、待て。わざわざ見届けに行くほどのこともあるまい。まだ後から誰か来るだろう。」
 高原の屋敷へ来る者はかならずその道を通るとは限らない。前にいった新五番町や濠端一番町方面に住んでいる者が、近道を取るために通りぬけるのであるから、神南、堀口、森積の三人以外に、誰がその道を通るかと数えると、同じ方向から来る者のうちに石川房之丞があった。
「石川もやがて来るだろうから、その話を聞いた上のことだ。」と、織衛は言った。
 そのうちに他の人々もおいおいに集まって来たが、石川はまだ見えなかった。これが常の場合ならば、遅参の一人や二人は除《の》け者にして、すぐに歌留多に取りかかるのであるが、今夜にかぎってどの人も石川の来るのが待たれるような心持で、彼の顔を見ないうちは誰も歌留多を始めようと言い出した者もなかった。歌留多の会が百物語の会にでも変ったように、一種の暗い空気がこの一座を押し包んで、誰も彼もみな黙っていた。十畳と八畳の二間をぶち抜いた座敷の真ん中に、三つの大きい燭台の灯が気のせいかぼんやりと曇って、庭先の八つ手の葉にさらさらと舞い落ちる雪の音が静かにきこえた。
 日の暮れた後、ひとりの老婆が雪の降る路ばたに坐っていたというのは、なるほど不思議といえば不思議であるが、さらに人々を不思議がらせたのは、その場所が鬼婆横町であるということであった。横町は新五番町の一部で、普通の江戸絵図には現われていないほどの狭い路で、俗にいう三町目谷の坂下から東へ入るのである。ここらの坂下は谷と呼ばれるほどの低地で、遠い昔には柳川という川が流れていたとか伝えられ、その川の名残りかとも思われる大溝が、狭く長い横町の北側を流れて、千鳥ヶ淵の方向へ注ぎ入ることになっている。その横町を江戸時代には俗に鬼婆横町と呼び慣わしていた。
 鬼婆という怖ろしい名がどうして起ったかと聞くと、いつの頃のことか知らないが、麹町通りの或る酒屋へ毎夕ひとりの老婆が一合の酒を買いに来る。時刻は暮れ六つの鐘のきこえるのを合図に、雨の夕も風の日もかならず欠かさずに買いに来るので、店の者も自然に懇意になって、老婆を相手に何かの世間話などをするようになったが、かれはこの近所の者であるというばかりで、決して自分の住所を明かさなかった。幾たび訊いても老婆はいつもあいまいな返事をくり返しているので、店の者共もすこしく不審に思って、事を好む一人が或るとき見え隠れにそのあとを付けて行くと、かれは三町目谷の坂下から東へ切れて、かの横町へはいったかと思うと忽ちに姿を消してしまったので、あとをつけて行った者は驚いて帰った。
 その報告を聞いた酒屋ではいよいよ不審をいだいて、老婆が重ねて来たらば更に尾行してその正体を突きとめる手筈をきめていると、かれはその翌日から酒屋の店先にその姿をみせなくなった。その後、三日経っても、五日経っても、老婆は酒を買いに来なかった。かれは自分のあとを付けられたことを覚ったらしく、永久にその酒屋に近づかなくなったのである。
 そういうわけで、かれの身許は勿論わからないが、かの横町へはいってその姿が消えたというので、かれは唯の人間でないという噂が伝えられて、その横町に鬼婆の名がかぶせられたのである。江戸が東京とかわった後、その大溝はよほど狭められ、さらに震災後の区劃整理によって、溝は暗渠に作りかえられ、路幅も在来の三倍以上の広い明るい道路に生れ変って、まったく昔の姿を失ってしまったが、明治の末頃までは鬼婆横町の俗称が古老の口に残っていて、我れわれが子供の時代にはその物凄い名に小さい魂をおびやかされたものであった。
 大田蜀山人の「一話一言」にもおなじような怪談が伝えられている。天明五年の頃、麹町に十兵衛という飴屋があって、平素から正直者として知られていたが、ある日の夕方に見馴れない男の子が来て店先に遊んでいるので、十兵衛は商売物の飴をやると彼はよろこんで帰った。その以来、夕方になると彼は飴を貰いに来た。それが幾日も続くばかりか、かつてここらに見かけない子供であるので、十兵衛もすこしく不審をいだいて、ある日ひそかにその後を付けてゆくと、彼は半蔵門の堤《ど
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