いたかも知れない。こうして、三、四、五の三月間をまず無事に送っていたが、いよいよ最後の破滅の時が来た。
 ここまで説明して来て、溝口医師は僕の叔父に言った。
「ここまでは私の推測がおそらくあたっているだろうと思うのですが、さていよいよの最後の問題です。矢田の母はあたかも不在であったので、前後の事情はよく判らないのですが、となりの空家でお筆と吉之助とが密会しているところへ、友之助がそれを発見して踏み込んで行ったのは事実でしょう。さあ、それからがなかなかむずかしい。お筆と吉之助は心中でもするつもりで劇薬を持ち込んだのか、それならば吉之助ひとりが飲むのもおかしい。あるいは吉之助がまず飲んだところへ、突然に友之助が押し込んで来たのか、それにしても、友之助がどうしてそれを飲んだか、飲まされたか。あるいは最初から心中などする料簡ではなく、単に吉之助の持っていた劇薬を、お筆が何かの邪魔になる友之助に飲ませようとして、吉之助もあやまって一緒に飲むような事になったのか、それとも何かの事情から男ふたりを一度に葬るつもりで、お筆が吉之助と友之助とに飲ませたのか、それらの秘密はお筆の白状を待つのほかはありません。したがって、永久の秘密に終るかも知れません。」
「お筆のゆくえはそれっきり知れないのですか。」と、叔父は訊いた。
「それから二、三日の後、有喜世新聞にあの記事が出て、築地河岸で夜網にかかった鯔の腹から破れた状袋があらわれた。その状袋には○之助様、ふでよりと書いてあったというのです。○之助だけでは、吉之助か友之助か判りませんが、差出人の名が「筆」とあるのをみると、どうもあのお筆の書いたものらしく思われたので、念のために京橋の警察へ行って聞きあわせたのですが、肝心の状袋は寿美屋の料理番が捨ててしまったというので、その筆蹟を見きわめることの出来なかったのは残念でした。」
「お筆は身でも投げたのでしょうか。」
「さあ、ふたりの男の死んだのを見て、お筆はそこを抜け出して、築地から芝浦あたりで身を投げた。そうして、帯のあいだか袂にでも入れてあった状袋が流れ出して、かの鯔の口にはいった――と、想像されないこともありません。あるいは単に不用の状袋を引裂いて川に投げ込んだのを、鯔がうっかり呑み込んだ――と、思われないこともありません。警察でも築地河岸から芝浦、品川沖のあたりまでも捜索してくれたのですが、それらしい死体は勿論、何かの手がかりになりそうな品も見付かりませんでした。お筆は死んだのか、生きているのか、それも結局判らずに終ったわけです。警察から静岡の方へも照会してくれましたが、そこには今でも久住弥太郎という士族が住んでいて、その家来の箕部五兵衛は先年病死、五兵衛の娘のお筆というのは親類をたずねて東京へ出たっきりで、その後の便りを聞かない。久住の屋敷は番町のしかじかというところだということで、総てがいちいち符合していますから、お筆の身許に嘘はないようです。してみると、お筆という女は自分の故郷に帰って来て、しかも自分の生れた家のなかでいろいろの事件を仕出来《しでか》して、そのまま生死不明になってしまったので、まったく不思議な女です。」
 S君の話はこれで終った。

 鯔の腹から状袋が出た――わたしはそれに一種の興味を感じて、その翌日近所の某氏をたずねた。某氏の土蔵の二階には、明治初年の古新聞がたくさんに積み込んであることをかねて知っていたからである。有喜世新聞があるかと訊くと、たしかにある筈だという。そこでだんだん調べてみると、果たして明治十五年五月十八日(日曜日)の有喜世新聞第千三百十号の紙上に、その記事が掲載されていた。その頃の雑報には標題がないので、ぶっ付けにこう書いてあった。
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◎鯛を料理 鯉を割きて宝物や書翰を得るは稗史《はいし》野乗《やじよう》の核子《かくし》なれど茲《ここ》に築地の土佐堀は小鯔《いな》の多く捕れる処ゆゑ一昨夜も雨上りに北鞘町の大工喜三郎が築地橋の側の処にて漁上《とりあ》げたのは大鯔にて直ぐに寿美屋の料理番が七十五銭に買求め昨朝庖丁した処腹の中から○之助様ふでよりと記した上封《うわふう》じが出たといふがモウ一字知れたら艶原稿の続きものにでもなりさうな話。
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 これでS君の話の嘘でないことが証拠立てられた。それと同時に、かのお筆という女のゆく末が知りたくなったが、何分にも今から四十年以上の昔のことであるから、その筋の本職の人ならば知らず、われわれ素人にはとうてい探索の方法を見いだし得られそうもない。



底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「文藝倶楽部」
   1925(大正14)年8月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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