ろうが、人間も素直でおとなしい。これでは誰にも嫌われ憎まれよう筈はないので、お筆は溝口一家の人々からも可愛がられた。とりわけてお蝶は彼女と姉妹《きょうだい》のように親しんでいた。
 あまりに口のよくない抱え車夫の女房もお筆をほめていた。お銀は一番最初に彼女を見つけて声をかけたのが何かの因縁であるようにも思われて、ゆくゆくはあの娘をわが子の嫁になどとも内々かんがえていたのと、もう一つには不運のむすめに同情する女ごころで、時どきに半襟や襦袢の袖などを贈ることもあった。お筆はその親切をよろこんで、お銀の家へも親しく出入りをして、その家の用などを手伝ってやっていた。
 こうして半年ばかりは無事に過ぎたが、あくる十四年の三月になって、溝口家にはまた一人の掛り人が殖えた。それは上林吉之助という青年で、溝口医師と同郷人であった。吉之助はことし二十一で、実家は農であるが相当に暮らしている。かれは次男で、医学修業のために上京したのであるが、うかつに下宿屋などに寄宿させるのは不安であるというので、吉之助の親許から万事の世話を溝口方へ頼んで来て、溝口もこころよくそれを引受けたのである。吉之助は小野という若い薬局生と玄関のわきの六畳の部屋に同居して、本郷辺にある学校に通いながら、かたわらに薬局の手伝いなどをしていた。
 前置きの説明がすこし長くなったが、これだけの事を言って置かないと、あとの話が判らなくなるおそれがあるから、まあ我慢してもらいたい。とにかくに溝口の家にお蝶という娘のあるところへ、さらにお筆という娘がはいり込んで来た。表長屋には矢田友之助という若い男がいるところへ、さらに溝口家に上林吉之助という若い男がはいり込んで来た。若い娘ふたりに若い男ふたり、それが接近していては、どうも無事に済みそうもないのは誰にも想像されるであろう。
 しかし表面はきわめて無事円満であった。吉之助もおとなしく勉強していて、溝口一家の信用を傷つけるようなことはなかった。お筆もお蝶と仲よくして、小間使のように働いていた。友之助は無事に役所へ出勤していた。この年の十月には政府に大|更迭《こうてつ》があって、大隈重信《おおくましげのぶ》が俄かに野《や》にくだった。つづいて板垣退助らが自由党を興《おこ》した。それらの事件も、溝口と矢田の両家にはなんの影響をあたえないで、両家は依然として平和に暮らしていた。しかも、その平和の破れる時節がだんだん近づいて来た。
 友之助の母お銀はその以前からお筆を嫁に貰いたい下心《したごころ》があった。お筆はことし十八で、来年は十九の厄年にあたるから、なるべくは年内に婚礼を済ませてしまいたいとお銀は思った。勿論それは溝口夫婦の同意を得なければならないのであるが、第一に本人同士の意思を確かめておく必要があるので、お銀はまずせがれの友之助に相談すると、かれは故障なく承知した。
「阿母《おっか》さんさえ好いというお考えならば、わたしに異存はありません。」
 そこで、友之助が役所へ出て行ったあとで、お銀はお筆をそっと呼んで、かの相談を打明けると、お筆はその返事を渋っていて、自分は他家《たけ》の厄介になっている身の上であるから、まだ当分は嫁に行くなどという気はないと答えた。お銀は年寄りで気が短かい。一旦思い立った以上、どうしてもこの相談をまとめてしまいたいと思って、いろいろに説得してみたが、お筆はいつまでもあいまいな返事をしているので、お銀も年寄りの愚痴やひがみもまじって、どうでわたしのせがれのような者はあなたの気には入るまいとか、碌な月給も貰わない安官員では士族のお嬢さまと縁組は出来まいとか、厭味らしいことをだんだんに言い出して来たので、お筆もひどく迷惑したらしい様子で、最後にこんなことを言った。
「そう仰しゃられると、わたくしもまことに困ります。実はあの……。こちらの友之助さんは、家《うち》のお蝶さんと……。」
「え。友之助がお蝶さんと……。ほんとうですか。」と、お銀はおどろいて訊きかえした。
「どうかこれは御内分《ごないぶん》にねがいます。」
「まあ、それはちっとも存じませんでした。一体いつごろからでしょう。」
「わたくしもよくは存じませんけれども……。」と、お筆は考えていた。「なんでもこの八月か九月頃からのように思われます」
「そうですか。」と、お銀は溜息《ためいき》をついた。
 わたくしの口からこれを聞いたことはくれぐれも内証にしてくれと、お筆が念を押して帰ったあとで、お銀は再び溜息をついた。お蝶もみにくい容貌ではないが、お筆にくらべると確かに劣る。勿論、今更そんな優劣を論じている場合ではない。出来たものなら仕方がないとしても、ここに第一の難儀は、お蝶がひとり娘であるということである。友之助も矢田家の相続人である以上、婿にも行かれず、嫁にも貰えず、この処置をどうしたら好いかと、お銀も思案にあぐんだのであった。
 その晩、友之助の帰るのを待ちかねて、お銀は早々にその詮議をすると、友之助もお蝶と関係のあることを白状した。それならば、なぜお筆との縁談を承知したかと詰問《きつもん》すると、友之助の返事は甚だあいまいであった。かれは母にきびしく追求されて、とうとうこんなことまで白状に及んだ。
「実はわたしは最初からお筆さんの方が好いと思っていたのです。それでこの八月ごろ内証でお筆さんに話してみたところが、お筆さんの言うには、折角の思召《おぼしめ》しだがその御返事は出来ない。あなたは御存じあるまいが、家《うち》のお蝶さんがふだんからあなたを思っている。それを知りつつわたくしがあなたと夫婦になられる訳のものではない。嘘だと思うならば、二、三日のうちにお蝶さんを連れて来て逢わせるというのです。それから二日目の夕方にお筆さんがそっと来て、今晩お蝶さんと二人で招魂社《しょうこんしゃ》の馬場へ涼みに行くから、あなたもあとから来てくれというので、私もついふらふらとその気になって招魂社まで出かけて行きました。」
 お蝶と友之助との関係がお筆の取持ちであることを知って、お銀は又おどろいた。おとなしそうな顔をしていながらお筆という女も随分の大胆者であると、むかし気質《かたぎ》のお銀は腹立たしくもなった。それと同時に、すでにお蝶との関係が成り立っていながら、出来るものならば牛を馬に乗りかえて更にお筆と結婚しようとする、わが子の手前勝手をも憎まずにはいられなかった。
「今のわかい人たちにも困るね。」
 こう言って、お銀は又もや嘆息するのほかはなかった。友之助もなんだか詰まらないような顔をして、自分の居間兼座敷にしている六畳の部屋へ起って行った。かれは置きランプの心《しん》をかき立てて、机の上でなにか長い手紙のようなものを書いているらしかった。

     三

 お銀はその夜はおちおちと眠られなかった。あくる朝、再びせがれを自分の前によび付けて、この解決をどうするつもりかと詰問すると、友之助はただ恐れ入っているらしく、別にはかばかしい返事もしなかった。しかし昔気質のお銀としては、ひとの娘をきず物にして唯そのまま済むわけのものではないと思った。殊に自分がそれを知った以上、なおさら捨てて置くわけにはいかない。ともかくも溝口の奥さんに逢って、その事情を一切うちあけて、自分のせがれの不埒を詫びた上で、あらためて今後の処置を相談するよりほかはないと一途《いちず》に思いつめたので、お銀はせがれが役所へ出勤したのを見とどけて、すぐに奥の家主をたずねた。
 それについて、溝口医師は僕の叔父にむかって、こう話したそうである。
「あの一件はわれわれがまったく無考えでした。矢田の母がたずねて来たときは、わたしは急病人の往診をたのまれて不在でしたが、家内も矢田の母からその話をきかされて、寝耳に水でびっくりしたそうです。なにしろお蝶はまだ十七で、ほんとうの子供だと思っていたのですからね。勿論、家内の一存でどうすることも出来ない。矢田の母はむかし気質の物堅い人ですから、涙をこぼしてあやまって帰ったそうです。それから家内はすぐ娘をよび付けて詮議すると、娘は唯泣くばかりで何にも言いません。しかしそれを否認しないのを見ると、まったく覚えのあることに相違ない。実をいうと、この春からわたしの家に来ている上林吉之助は、人間も悪くないし、学問の成績もよし、殊に次男でもありますから、もう少しその成行きを見届けた上で、お蝶の婿にしようなどと、家内と内々相談をしていたのですが、もうこうなっては仕様がありません。ひとり娘を嫁にやるのは困るのですが、今更そんなことを言ってもいられないので、わたしは家内と相談して、思い切ってお蝶を矢田の家へやることに決めました。無理に生木《なまき》をひきさいて、それがために又なにかの間違いでも出来て、結局は新聞の雑報|種《だね》になって、近所隣りへ来て大きい声で読売りでもされた日には、飛んだ恥さらしをしなければなりませんから、家内にも因果をふくめて、とうとうそういうことに決めてしまったのです。
 矢田も悪い人間ではないのですが、月給は十五円か十六円の安官員で、それが家内の気に入らないようでしたが、くどくもいう通り、もうこうなっては仕様がないと諦めさせて、あらためて家内から矢田の母に挨拶させると、こちらの不埒を御立腹もなくて、ひとり娘のお嬢さんをわたくし共のところへお嫁に下さるとは、まことに相済まないことでございますと言って、矢田の母は又もや涙をこぼして喜んだそうです。そこで、ことしももう余日がないので、来春になったらばいよいよお蝶を輿入《こしい》れさせるということに取りきめて、まずこの一件も一埒《いちらち》明いたのでした。しかし物事にはすべて裏の裏がある。その詮索をおろそかにして、ただ月並の解決法を取って、それで無事に納まるものと思い込んでいたのは、まったくわれわれの間違いであったということを後日になって初めてさとったのです。」
 こう決めた以上は、もとより隠すべきことでもないので、溝口家ではその年の暮れから婚礼の準備に取りかかった。溝口の細君は娘を連れて、幾たびか大丸や越後屋へも足を運んだ。そうしたあわただしいうちに年も暮れて、ことしは取り分けて目出たいはずの明治十五年の春が来た。二月の紀元節の夜にいよいよ婚礼ということに相談が進んで、溝口矢田の両家ではその準備もおおかた整った一月二十九日の夜の出来事である。やがて花嫁となるべきお蝶が薬局の劇薬をのんで突然自殺した。もちろん商売柄であるから、溝口もいろいろに手を尽くして治療を加えたが、それを発見した時がおくれていたので、お蝶はどうしても生きなかった。
 婿と嫁と、この両家のおどろきは言うまでもない。婚礼の間ぎわになってお蝶がなぜ死んだのか、その子細は誰にも判らなかった。どの人もただ呆れているばかりで、暫くは涙も出ないくらいであったが、なんといってももう仕方がないので、溝口家からは警察へも届けて出て、正規の手続きを済ませてお蝶の亡骸《なきがら》を四谷の寺に葬った。溝口家からは警察にたのんで、事件を秘密に済ましてもらったので、お蝶の死は幸いに新聞紙上にうたわれなかった。
 お蝶は一通の書置《かきおき》を残していたので、それが自殺であることは疑うべくもなかったが、その書置は母にあてた簡単なもので、自分は子細あって死ぬから不孝はゆるしてくれ、父上にもよろしくお詫びを願いたいというような意味に過ぎなかった。したがって、死ななければならない子細というのはやっぱり不明に終ったのである。それはそれとして、彼女の死が周囲の空気を暗くしたのは当然であった。矢田の母は気抜けがしたようにがっかりしてしまった。友之助もやけになって諸方を飲みあるいているらしく、毎晩酔って帰って来た。溝口の細君も半病人のようにぼんやりしていた。
 こうなって来ると、誰からも好い感じを持たれないのはかのお筆という女の身の上で、彼女がお蝶と友之助とを結びあわせた為に、こんな悲劇が生み出されたらしくも想像されるのであった。お蝶の死因がはっきりしない以上、みだりにお筆を責めるわけ
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