あるので、交通機関の乗合自動車は宵から賢くも運転を止めてしまったらしく、そこらに一台もその姿を見せなかった。
われわれは半分夢中で、目的地のトラファルガー・スクエヤーまで押されてゆくと、彼のネルソン将軍の高い塔にはおびただしい国旗が懸けられている。塔の下の空地で花火が打揚げられるのであるが、とてもその傍へは寄付けないので、どんな仕掛花火かよくは判らない。ただ時々に高く飛びあがる紅や青や紫の星の光がみだれて流れるのを仰ぎ視るばかりである。その花火の光を奪うようにどこからか探照灯がひらひらと閃いて来て、真黒にうず巻いている人々の帽子や顔を蒼白く照して通る。それが通りすぎると、暗い空は再び花火の美しい星に彩られる。空ばかりでなく、地の上もときどきに真紅に灼けたり、真青に光ったりするらしいが、人の垣に隔てられて覗くことも出来ない。ここでも幾たびか顔を撫でられた。
ここを立退いて、少し混雑が薄れるかと思うと、往来のまん中に輪を作って、幾組も踊っているのがある。踊りながら歩いているのもある。自分勝手に花火をぽんぽん打揚げているのもある。鼠花火のようなものを人の足もとへ投付けて、その火におどろいて飛び上るのを喜んでいるものもある。巡査は笑って見ているばかりで、今夜は決して叱ろうとはしない。
群衆は我々と前後して、暗い木立の下を縫ってゆく。バッキングヮムの宮城前へ集まるのである。宮城前の広場にはもう幾万人か屯している。
『キング! キング!』と叫びながら駈けてゆく者がある。我々はそのあとに付いて駈けてゆくと、露台には灯火が燦として輝いて、英国皇帝陛下も皇后陛下もそこに正しく立ってられるのが夜目にも仰がれる。陛下からどう云う御会釈のお詞があったか、遠方からは勿論聴き取れなかったが、幾万の群衆はどっと声をあげて、帽を振るものもある。ステッキやハンカチーフを振るのもある。陛下のお姿が窓にかくれて、露台が闇につつまれた後も、宮城の森に反響する歓呼の声はしばらく止まなかった。
帰りはなるべく混雑の少い抜道を択んで、もとのオックスフォード・サアカスまで帰りつくと、夜風の寒いのが初めて肌にしみた。暗い雲はだんだんにちぎれかかって、その袖の下から白い星が二つ三つ瞬きもせずに下界を視つめているらしかった。宿へ帰って時計をみると、今夜はもう十二時を過ぎていた。
[#地から1字上げ](大正八年六月 倫敦にて)
底本:「世界紀行文学全集 第三巻 イギリス編」修道社
1959(昭和34)年7月20日発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年7月3日作成
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