たので、林之助は今更のように身がすくんだ。彼はどうしても忌《いや》とは言われなくなった。あとはともあれ、この場では一応承知したと言わなければならないように思われた。
「よし、よし、判った。しかし武家奉公というものは面倒なもので、親のかたきを探しに出るからといって、きょうが今日すぐに暇《ひま》をくれるわけのものじゃあねえ。長《なが》の暇《いとま》を貰うにしても今すぐという訳にはいかねえから、屋敷にいる間はなんとか都合して毎日見舞いに来る。さっきもお君に頼んで置いたんだが、急な用ができたら直ぐに豊吉を迎いによこしてくれ。いつでも直ぐに飛んで来るから。ね、それでいいだろう」
「欺《だま》すんじゃあるまいね」と、念を押してお絹は納得《なっとく》した。
 彼女はお君に、もう何どきだと訊いた。さっき八幡鐘の七つを聞いたとお君が言うと、それでは林さんの好きな蒲焼でもあつらえろとお絹は寝ながら指図した。なに、そうはしていられないと林之助は言ったが、さすがに振り切って起ちかねていると、お君はすぐ近所の鰻屋へ駈けて行った。
「林さん、新しい袷なんぞ着て粧《めか》しているんだね」と、お絹は仰向いて男の姿をながめた。
「むむ、これか」と、林之助は袷の膝をなでた。「そら、いつか話したことがあるだろう。この四月に新しく拵《こさ》えて、一度も手を通さねえで蔵入《くらい》りにした奴さ。秋風が立っちゃあ遣り切れねえから、御用人を口説いて二歩借りて、これと一緒に羽織や冬物を受けて来た」
「不二屋へ運ぶのが忙がしいから、身のまわりなんぞには手が届かねえのさ」と、お絹は笑った。「御用人さんに二歩借りて、それをどうして返すの」
「都合のいい時に返すのさ。まさか利も取るめえ」と、林之助も笑った。
「おまえさんにも都合のいい時があるのかしら。ちょいと、お前さん。この蒲団の左の下から紙入れを出して頂戴な」
 言われた通りに林之助は紙入れを取って渡すと、お絹はそのなかから二歩を出した。
「暇を貰おうという矢先きに、借りなんぞあっちゃ拙《まず》いから、よくお礼をいって、御用人に早く返しておしまいなさいよ」
「だが、こっちも病気で物入りの多いところだろう」と、林之助は手を出しかねて、もじもじ[#「もじもじ」に傍点]していた。
「なに、こっちは又どうにかなるから」
 二歩の銀《かね》を手に握って、林之助は気の毒でもあり、
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