。
「一体どこが悪いんだ。飲み過ぎたんだというじゃあねえか」
「両国の方へ寄ったの。お花に逢って……」
「むむ。みんなに逢った」
お絹はしばらく黙って俯向いて、油の匂う枕をうっとりと見つめていた。もう枯れかかった朝顔の鉢を一つ列べてある低い窓の外には、雨の音がむせぶように聞えた。
「林さん」と、お絹はだしぬけに言った。「あたし、お前さんにあやまることがあるの。実はおとといの晩、お花にうっかり誘い出されて、向島の料理茶屋へ行ったと思ってください。石を抱くまでもない、あたしは何もかも正直に白状しますよ。そのお客というのは何日《いつ》も来る浅草の質屋の息子で、あたしもちっとは面白いかと思って行ってみると、まるで大違い。あんまり癪にさわったから、自棄《やけ》になって無暗に飲んで、喧嘩づらでそこをふい[#「ふい」に傍点]と出てしまって、それからお前さんの屋敷へ押し掛けて行ったの。ね、判ったでしょう。お花がなにを言ったか知らないが、ほんとうの話はそれだけですからね。必ず悪くとっちゃあ困りますよ。それにしても、あたしが悪いんだから謝まります。堪忍してください」
「それだけのことなら何もあやまる筋でもあるめえ。おらあもっと悪いことをしたのかと思った」と、林之助は少し皮肉らしく笑った。
「なんとでも言うがいいのさ」と、お絹も寂しく笑っていた。
お君が羊羹《ようかん》を切って菓子皿に盛って来た。それはけさ両国の小屋|主《ぬし》から見舞いによこしたのだと言った。羊羹をつまみながら林之助は枕もとの古い屏風をながめた。林之助がまだここにいる頃に粗相で一カ所破いたので、なにか切貼《きりば》りをするものはないかと、彼は近所の絵草紙屋へ行って探した末に、鬼の念仏の一枚絵を買って来て貼り付けた。夜泣きの呪《まじな》いじゃあるまいしと、お絹は思わず噴き出したことがあった。
その一枚の絵は煤《すす》びたままで今も屏風に貼り付けてある。林之助に取ってはこれも懐かしい思い出の一つであった。
彼はここへ身を寄せてからの小一年のあいだの出来事を、それからそれへと思いうかべた。そうして、自分の眼の前に悩ましげに坐っているお絹の衰えた姿を悼《いた》ましく眺めた。その妖艶のおもかげはきのうに変らないが、僅か見ないうちに小鼻の肉が落ちて、頬が痩せて、水のような色をしている顔の寂しさが眼に立った。それと同時に、ま
前へ
次へ
全65ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング