づ》きまわした。相手が酔っているので、お花はどうすることも出来なかった。女中たちはおどろいて燭台を片寄せた。
「手に負えねえ女だ」と、千次郎は持てあましたように苦笑《にがわら》いをしていた。
「姐さん。あやまった、あやまった。堪忍、堪忍……」
 お花は小突かれながら頻りにあやまると、お絹は相手を突き放してすっくと起ちあがった。乱れた髪は黒い幕のように彼女の蒼い顔をとざして、そのあいだから物凄い二つの眼ばかりが草隠れの蛇のように光っていた。
「あたし、もう帰りますよ。誰がこんな所にいるもんか。駕籠を呼んでくださいよ」

     八

 向島を出たお絹の駕籠は四つ(午後十時)頃に、向柳原の杉浦家の門前におろされた。垂簾《たれ》をあげて這い出したお絹は、よろけながら下駄を突っかけて立った。提灯の灯《ほ》かげにぼんやりと照らされた彼女の顔はまだ蒼かった。暗い夜で、雨気《あまけ》を含んだ低い雲の間に、うすい天《あま》の河《がわ》が微かに流れていた。
 駕籠屋にはなんにも言わないで、お絹はよろよろ[#「よろよろ」に傍点]と潜《くぐ》り門の前へあるいて行った。門にはもう錠がおろされていて、闇に白い彼女の拳《こぶし》が幾たびかその扉に触れると、そばの出窓から門番のおやじが首を出した。
「どなた……」
 門番は大きく呼んだ。
「あたしですよ」と、お絹は答えた。「仁科林之助さんに逢わしてください」
「門限をご存じないか」
「それでも急用なんですよ。早く明けてください。後生《ごしょう》ですから」
 その媚《なまめ》いた口ぶりに門番も不審を打ったらしい。やがて行燈を持ち出して来て、窓のあいだから表の人の立ち姿を子細らしく照らして見た。
「急用でも夜はいけない。あしたまた出直して来さっしゃい」
「焦《じ》れったい人だね。用があるというのに……」
「おまえは一体だれだ。どこの者だ」と、門番は声をとがらせた。
「林之助の女房ですよ」
「林之助の女房……」
「だから、早く逢わしてください」
「では、待たっしゃい」
 門番は不承ぶしょうに奥へはいった。お絹は古い門柱へ倒れるように倚《よ》りかかって、熱い息をふいていると、真っ暗な屋敷の奥では火の廻りの柝《き》の音がきざむように遠く響いて、どこかの草の中からがちゃがちゃ虫の声もきこえた。
 やがて潜り門の錠をあける音がからめいて、暗い中から林之助の白
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