いのお絹には、仁科林之助《にしなりんのすけ》という男があった。林之助は御直参《ごじきさん》の中でも身分のあまりよくない何某《なにがし》組の御家人《ごけにん》の次男で、ふとしたはずみからこのお絹と親しくなって、それがために実家をとうとう勘当されてしまった。低い家柄に生まれた江戸の侍としては、林之助はちっとも木綿摺《もめんず》れのしないおとなしやかな男であった。相当に読み書きもできた。殊にお家流《いえりゅう》を達者に書いた。
 勘当された若い侍はすぐにお絹の家に引き取られた。お絹が可愛がっているものは、林之助と蛇とであった。こうして一年ほども仲よく暮らしているうちに、男はある人の世話で御納戸衆《おなんどしゅう》六百五十石の旗本|杉浦中務《すぎうらなかつかさ》の屋敷へ中小姓《ちゅうごしょう》として住み付くことになった。窮屈な武家奉公などしないでも、お前さん一人ぐらいはあたしが立派にすごしてみせると、お絹はしきりにさえぎって止めたが、すなおな林之助もこの時ばかりは無理に振り切って出て行った。杉浦の屋敷は向柳原で、この両国と余り遠くもなかった。それはお絹が可愛がっている三匹の青い蛇がだんだん寒さに弱ってゆく去年の冬の初めであった。
 旗本屋敷の中小姓がおもな勤めは、諸家への使番と祐筆《ゆうひつ》代理とであった。人品がよくてお家流を達者にかく林之助は、こうした奉公の人に生まれ付いていたので、屋敷内の気受けも悪くなかった。屋敷へはいってからも、林之助は用の間《ひま》をみてお絹にたびたび逢いに来た。東両国の観世物《みせもの》小屋の楽屋へも時どき遊びに来た。それが今年の川開き頃からしだいに足が遠くなって、お絹の家《うち》にも楽屋にも林之助の白い顔が見えなくなった。焼けるような真夏の暑さにむかって青い蛇は生き生きした鱗《うろこ》の色をよみがえらせたが、蛇つかいの顔には暗い影が始終まつわっていた。
「どう考えても向柳原の仕打ちが其《そ》でねえようだ」と、豊は最後の判決をくだした。「ちっとぐれえ姐さんが無理をいったところで、そりゃあ柳に受けているだけの義理もあろうというもんだ。なにしろ、かれこれ一年の余もああして世話になった以上は……。おいらっちのようなこんな人間でも、人の世話になったことは覚えている。まして痩せても枯れても二本差しているんじゃねえか。堀川のお俊《しゅん》を悪く気取って、世
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