身の上話をしみじみと聞かされて、もううっかりと詰まらない冗談も言えないような気になって、林之助もおのずと真面目な話し相手にならなければならなくなった。
二人の話し声はだんだんに沈んでいった。問われるに従ってお里はいろいろのことを打ち明けた。七年前に死んだ兄のほかには、ほとんど頼もしい身寄りもないと言った。不二屋のおかみさんも遠縁とはいえ、立ち入って面倒を見てくれるほどの親身《しんみ》の仲でもないと言った。母は賃仕事《ちんしごと》などをしていたが、それも病身で近頃はやめていると言った。お里の話は気の弱い林之助の胸に沁みるような悲しい頼りないことばかりであった。
林之助は自分とならんでゆくお里の姿を今更のように見返った。紅《あか》いきれをかけた大きい島田|髷《まげ》が重そうに彼女の頭をおさえて、ふさふさした前髪にはさまれた鼈甲《べっこう》の櫛やかんざしが夜露に白く光っていた。白地の浴衣《ゆかた》に、この頃はやる麻の葉絞りの紅い帯は、十八の娘をいよいよ初々《ういうい》しく見せた。林之助はもう一度お絹とくらべて考えた。お里はとかく俯向き勝ちに歩いているので、その白い横顔を覗くだけでは何となく物足らないように思われた。
「どうもありがとうございました。さぞ御迷惑でございましたろう」
外神田まで送り付けて、路の角で別れるときにお里は繰り返して礼をいった。自分の家はこの横町の酒屋の裏だから、雨の降る日にでも遊びに来てくれと言った。それがひと通りのお世辞ばかりでもないように林之助の耳に甘くささやかれた。まんざらの野暮でもない林之助は阿母《おっかあ》に好きなものでも買ってやれといって、いくらかの金を渡して別れた。お里は貰った金を帯に挟んで、幾たびか見かえりながら月の下をたどって行った。
お里に別れて林之助は肌寒くなった。夜もおいおいに更けて来るので、彼は向柳原へ急いで帰った。帰る途中でも、お絹とお里の顔がごっちゃになって彼の眼のさきにひらめいていた。
「お絹に済まない」
お絹の眼を恐れている林之助は、お絹の心を憎もうとは思わなかった。彼は義理を知っていた。彼はお絹の濃《こま》やかな情を忘れることは出来なかった。お絹はとかく苛《いら》いらして、ややもすると途方もない気違い染みた真似をするのも去年の冬以来のことで、はっきり自分が彼女の家を立ち退いてからの煩らいである。現にきょう
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