さ。この暑さじゃあ、大抵の者はうだってしまわあね。どうでこんな時に口をあいて見ているのは、田舎者か、勤番者《きんばんもの》か陸尺《ろくしゃく》ぐらいの者さ」
 手拭で目のふちを拭いてしまって、お絹は更に小さいふところ鏡をとり出して、まだらに剥げかかった白粉の顔を照らして視ていた。
「中入《なかい》りが済むと、もう一度いつもの芸当をごらんに入れるか、忌《いや》だ、いやだ。からだが悪いとでもいって、お若《わか》のように二、三日休んでやろうかしら」
「あら、姐《ねえ》さんが休んだら大変ですわ」と、お君はびっくりしたように眼を丸くした。
「お若さんが休んでいるのはまだいいけれど、姐さんに引かれちゃあ、まったく大変だわ」と、茶碗に水を汲んで来た他の若い女が言った。「あたし達は、ほんの前芸《まえげい》ですもの」
「前芸でたくさんだよ、この頃は……。ほんとうの芸当はもう少し涼風《すずかぜ》が立って来てからのことさ。この二、三日の暑さにあたったせいか、あたしは全くからだが変なんだよ」
「そりゃあ陽気のせいじゃありますまい」と、地弾《ぢひ》きらしい年増《としま》の女が隅の方から忌《いや》に笑いながら口を出した。「向柳原《むこうやなぎわら》はどうしたのか、この二、三日見えないようですね」
「二、三日どころか、八月にはいってからは、碌《ろく》に寄り付きゃあしないのさ、畜生、憶えているがいい」
 お絹は眼にみえない相手を罵《ののし》るように呟《つぶや》いた。金地に紅い大きい花を毒々しく描いてある舞台持ちの扇で、彼女は傍にある箱を焦《じ》れったそうにとんとん[#「とんとん」に傍点]と叩くと、箱の小さい穴から青い頭の蛇がぬるぬると首を出した。
「畜生、お前の出る幕じゃあないんだよ」
 扇で頭を一つ叩かれて、蛇はおとなしく首をすくめて、もとの穴に隠れてしまった。
「八つあたりね、可哀そうに……。ずいぶん邪慳《じゃけん》だこと」と、若い女が笑った。
「あたしは邪慳さ。おまけにこの頃は癇《かん》が起ってじりじり[#「じりじり」に傍点]しているから、たれかれの遠慮はないんだよ」と、お絹は扇で又もやその箱を強く叩いたが、蛇はもう懲りたと見えて、今度は首を出さなかった。
「お察し申しますよ」と、年増はすこし阿諛《おもね》るようにしみじみ言った。「向柳原はほんとうにどうしたんでしょう。まったく不実《ふじつ》
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