ら、まあそう叱って貰いたくない」と、林之助は苦笑《にがわら》いをした。「そうして、どうだね、病人の容体は……」
 豊吉は顔をしかめて首を振った。
「悪くなるばかり」
「困ったもんだ。医者もあぶないと言っているかね」
「はっきりとは言わねえが、もう匙《さじ》を投げているらしいんですよ。なにしろ咳が出て、胸から肋骨《あばら》が痛んで熱が出て……。どうもこの秋は越せまいと思うんです。わたくしも長らくお世話になった姐さんですが……」
 もう今にも死ぬもののように豊吉は溜め息をついていた。こうなったらいっそお絹が死んでくれればいいというような考えが、林之助の頭を稲妻のように掠めて通った。
 彼はだまって内へはいると、お若もお君もお婆さんもみな眼を赤くしていた。林之助は自分の不人情が急に恥かしくなって、肩身が狭いような心持ちで病人の枕もとにそっと坐ると、お絹はもう正体がなかった。もう誰の見境いもないらしかった。時どきに苦しそうに胸をかかえながら、彼女は髪を振り乱して、衾《よぎ》を跳ねのけて、夢中で床の上に起き直ろうとしてまた倒れた。と思うと、溺れた人が何物をか掴んですがろうとするように、彼女は痩せた手をのばして寝床の上を這いまわった。それが傷ついた蛇ののたくっているようにも見えて、林之助にはものすごかった。
 彼はいよいよ気が咎めてならないので、まわりの人たちにむかって頻りに自分の無沙汰の言い訳をした。屋敷の御用の忙がしいことを話した。主人が節句の登城の前日に、たとい半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》でも屋敷をぬけてこうして見舞いに来たことが、彼の不実でないという十分の証拠にはならないらしく、どの人も彼に対して冷たいような眼を向けていた。
「なにしろ、わたしも主人持ちだから、毎日見舞いに来るわけにもいかない。まあ、皆さん、なにぶん願いますよ」と、林之助はみんなにくれぐれも頼んでいた。
 まったくきょうは忙がしいからだであるので、ゆっくりとここに坐り込んでいることを許されなかった。彼は小半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]ばかりで病人の枕もとを起った。
 帰るときに豊吉が格子の外まで送って出た。
「旦那、ようござんすかえ。姐さんは九死一生という場合なんですぜ。お屋敷の御用は仕方がありませんが、ほかの何事をおいてもここへ来なけりゃあ義理が済みませんぜ。
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