ので、昔の画家の働きである。
しかし市中に飛んでいる小さい蝙蝠は、鬼気や妖気の問題を離れて、夏柳の下をゆく美人の影を追うに相応《ふさわ》しいものと見なされている。わたしたちも子供のときには蝙蝠を追いまわした。
夏のゆうぐれ、うす暗い家の奥からは蚊やりの煙がほの白く流れ出て、家の前には凉み台が持ち出される頃、どこからとも知らず、一匹か二匹の小さい蝙蝠が迷って来て、あるいは町を横切り、あるいは軒端を伝って飛ぶ。蚊喰い鳥という異名の通り、かれらは蚊を追っているのであろう。それをまた追いながら、子供たちは口々に叫ぶのである。
「こうもり、こうもり、山椒《さんしょう》食わしょ。」
前の雁とは違って、これは手のとどきそうな低いところを舞いあるいているから、何とかして捕えようというのが人情で、ある者は竹竿を持ち出して来るが、相手はひらひら[#「ひらひら」に傍点]と軽く飛び去って、容易に打ち落とすことは出来ない。蝙蝠を捕えるには泥草鞋《どろわらじ》を投げるがよいということになっているので、往来に落ちている草鞋や馬の沓《くつ》を拾って来て、「こうもり来い」と呼びながら投げ付ける。うまく中《あた》って地に落ちて来ることもあるが、またすぐに飛び揚がってしまって、十に一つも子供たちの手には捕えられない。たとい捕え得たところでどうなるものでもないのであるが、それでも夢中になって追いあるく。
その泥草鞋があやまって往来の人に打ちあたる場合は少くない。白地の帷子《かたびら》を着た紳士の胸や、白粉《おしろい》をつけた娘の横面などへ泥草鞋がぽん[#「ぽん」に傍点]と飛んで行っても、相手が子供であるから腹も立てない。今日ならば明《あきら》かに交通妨害として、警官に叱られるところであろうが、昔のいわゆるお巡りさんは別にそれを咎《とが》めなかったので、わたしたちは泥草鞋をふりまわして夏のゆうぐれの町を騒がしてあるいた。
街路樹に柳を栽《う》えている町はあるが、その青い蔭にも今は蝙蝠の飛ぶを見ない。勿論、泥草鞋や馬の沓などを振りまわしているような馬鹿な子供はない。
こんなことを考えているうちに、例の馬力が魔の車とでもいいそうな響きを立てて、深夜の町を軋《きし》って来た。その昔、京の町を過ぎたという片輪車の怪談を、私は思い出した。
停車場の趣味
以前は人形や玩具に趣味を有《も》って
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング