をたくさん買い込んで来たのですが、そうも食えないもので……。御覧なさい。まだこっちにもこんな物があるんです。」
 もう一つの竹の皮包みには、食い残りの握り飯と刻みするめのようなものがはいっていた。
「まあ、これを子供衆にあげてください。」
 ここらに年じゅう住んでいる者では、海苔巻のすしでもなかなか珍らしい。重兵衛は喜んでその贈り物を受取った。
「おい、太吉。お客人がこんないいものを下すったぞ。早く来てお礼をいえ。」
 いつもならば、にこにこして飛び出してくる太吉が、今夜はなぜか振り向いても見なかった。彼は眼にみえない怖ろしい手に掴《つか》まれたように、固くなったままで竦《すく》んでいた。さっきからの一件もあり、かつは客人の手前もあり、重兵衛はどうしても叱言《こごと》をいわないわけにはいかなかった。
「やい、何をぐずぐずしているんだ。早く来い。こっちへ出て来い。」
「あい。」と、太吉はかすかに答えた。
「あいじゃあねえ。早く来い。」と、父は呶鳴った。「お客人に失礼だぞ。早く来い。来ねえか。」
 気の短い父はあり合う生木《なまき》の枝を取って、わが子の背にたたきつけた。
「あ、あぶない。怪我でもするといけない。」と、旅人はあわてて遮《さえぎ》った。
「なに、言うことをきかない時には、いつでも引っぱたくんです。さあ、野郎、来い。」
 もうこうなっては仕方がない。太吉は穴から出る蛇のように、小さい体をいよいよ小さくして、父のうしろへそっと這い寄って来た。重兵衛はその眼先へ竹の皮包みを開いて突きつけると、紅い生姜《しょうが》は青黒い海苔をいろどって、子供の眼にはさも旨そうにみえた。
「それみろ、旨そうだろう。お礼をいって、早く食え。」
 太吉は父のうしろに隠れたままで、やはり黙っていた。
「早くおあがんなさい。」と、旅人も笑いながら勧めた。
 その声を聞くと、太吉はまた顫えた。さながら物に襲われたように、父の背中にひしとしがみ付いて、しばらくは息もしなかった。彼はなぜそんなにこの旅人を恐れるのであろう。小児《こども》にはあり勝ちのひとみしりかとも思われるが、太吉は平生そんなに弱い小児ではなかった。ことに人里の遠いところに育ったので、非常に人を恋しがる方であった。樵夫でも猟師でも、あるいは見知らぬ旅人でも、一度この小屋へ足を入れた者は、みんな小さい太吉の友達であった。どんな人に出逢っても、太吉はなれなれしく小父《おじ》さんと呼んでいた。それが今夜にかぎって、普通の不人相《ぶにんそう》を通り越して、ひどくその人を嫌って恐れているらしい。相手が子供であるから、旅人は別に気にも留めないらしかったが、その平生を知っている父は一種の不思議を感じないわけにはいかなかった。
「なぜ食わない。折角うまい物を下すったのに、なぜ早く頂かない。馬鹿な奴だ。」
「いや、そうお叱りなさるな。小児というものは、その時の調子でひょいと拗《こじ》れることがあるもんですよ。まあ、あとで食べさせたらいいでしょう。」と、旅人は笑いを含んでなだめるように言った。
「お前が食べなければ、お父《とっ》さんがみんな食べてしまうぞ。いいか。」
 父が見返ってたずねると、太吉はわずかにうなずいた。重兵衛はそばの切株の上に皮包みをひろげて、錆びた鉄の棒のような海苔巻のすしを、またたく間に五、六本も頬張ってしまった。それから薬罐のあつい湯をついで、客にもすすめ、自分も、がぶがぶ飲んだ。
「時にどうです。お前さんはお酒を飲みますかね。」と、旅人は笑いながらまた訊いた。
「酒ですか。飲みますとも……。大好きですが、こういう世の中にいちゃ不自由ですよ。」
「それじゃあ、ここにこんなものがあります。」
 旅人は雑嚢をあけて、大きい壜詰の酒を出してみせた。
「あ、酒ですね。」と、重兵衛の口からは涎《よだれ》が出た。
「どうです。寒さしのぎに一杯やったら……。」
「結構です。すぐに燗《かん》をしましょう。ええ、邪魔だ。退《ど》かねえか。」
 自分の背中にこすり付いているわが子をつきのけて、重兵衛はかたわらの棚から忙がしそうに徳利をとり出した。それから焚火に枝を加えて、壜の酒を徳利に移した。父にふり放された太吉は猿曳きに捨てられた小猿のようにうろうろしていたが、煙りのあいだから旅人の顔を見ると、またたちまち顫えあがって、むしろの上に俯伏したままで再び顔をあげなかった。
「今晩は……。重兵衛どん、いるかね。」
 外から声をかけた者がある。重兵衛とおなじ年頃の猟師で、大きい黒い犬をひいていた。
「弥七どんか。はいるがいいよ。」と、重兵衛は燗の支度をしながら答えた。
「誰か客人がいるようだね。」と、弥七は肩にした鉄砲をおろして、小屋へひと足踏み込もうとすると、黒い犬は何を見たのか俄かに唸りはじめた。
「なんだ、なんだ。ここはおなじみの重兵衛どんの家だぞ。ははははは。」
 弥七は笑いながら叱ったが、犬はなかなか鎮まりそうにもなかった。四足《よつあし》の爪を土に食い入るように踏ん張って、耳を立て眼を瞋《いか》らせて、しきりにすさまじい唸り声をあげていた。
「黒め。なにを吠えるんだ。叱っ、叱っ。」と、重兵衛も内から叱った。
 弥七は焚火の前に寄って来て、旅人に挨拶した。犬は相変らず小屋の外に唸っていた。
「お前いいところへ来たよ。実は今このお客人にこういうものをもらっての。」と、重兵衛は自慢らしくかの徳利を振ってみせた。
「やあ、酒の御馳走があるのか。なるほど運がいいのう、旦那、どうも有難うごぜえます。」
「いや、お礼を言われるほどにたくさんもないのですが、まあ寒さしのぎに飲んでください。食い残りで失礼ですけれど、これでも肴にして……。」
 旅人は包みの握り飯と刻みするめとを出した。海苔巻もまだ幾つか残っている。酒に眼のない重兵衛と弥七とは遠慮なしに飲んで食った。まだ宵ながら山奥の夜は静寂《しずか》で、ただ折りおりに峰を渡る山風が大浪の打ち寄せるように聞えるばかりであった。
 酒はさのみの上酒というでもなかったが、地酒を飲み馴れているこの二人には、上々の甘露であった。自分たちばかりが飲んでいるのもさすがにきまりが悪いので、おりおりには旅人にも茶碗をさしたが、相手はいつも笑って頭《かぶり》を振っていた。小屋の外では犬が待ちかねているように吠え続けていた。
「騒々しい奴だのう。」と、弥七はつぶやいた。「奴め、腹がへっているのだろう。この握り飯を一つ分けてやろうか。」
 彼は握り飯をとって軽く投げると、戸の外までは転げ出さないで、入口の土間に落ちて止まった。犬は食い物をみて入口へ首を突っ込んだが、旅人の顔を見るやいなや、にわかに狂うように吠えたけって、鋭い牙をむき出して飛びかかろうとした。
「叱っ、叱っ。」
 重兵衛も弥七も叱って追いのけようとしたが、犬は憑《つ》き物でもしたようにいよいよ狂い立って、焚火の前に跳り込んで来た。旅人はやはり黙って睨んでいた。
「怖いよう。」と、太吉は泣き出した。
 犬はますます吠え狂った。子供は泣く、犬は吠える、狭い小屋のなかは乱脈である。客人の手前、あまり気の毒になって来たので、無頓着の重兵衛もすこし顔をしかめた。
「仕様がねえ。弥七、お前はもう犬を引っ張って帰れよう。」
「むむ、長居をするとかえってお邪魔だ。」
 弥七は旅人に幾たびか礼をいって、早々に犬を追い立てて出た。と思うと、かれは小戻りをして重兵衛を表へ呼び出した。
「どうも不思議なことがある。」と、彼は重兵衛にささやいた。「今夜の客人は怪物じゃねえかしら。」
「馬鹿をいえ。えてもの[#「えてもの」に傍点]が酒やすしを振舞ってくれるものか。」と、重兵衛はあざ笑った。
「それもそうだが……。」と、弥七はまだ首をひねっていた。「おれ達の眼にはなんにも見えねえが、この黒めの眼には何かおかしい物が見えるんじゃねえかしら。こいつ、人間よりよっぽど利口な奴だからの。」
 弥七のひいている熊のような黒犬がすぐれて利口なことは、重兵衛もふだんからよく知っていた。この春も大猿がこの小屋へうかがって来たのを、黒は焚火のそばに転がっていながらすぐにさとって追いかけて、とうとうかれを咬み殺したこともある。その黒が今夜の客にむかって激しく吠えかかるのは何か子細があるかも知れない。わが子がしきりにかの旅人を恐れていることも思い合されて、重兵衛もなんだかいやな心持になった。
「だって、あれがまさかにえてもの[#「えてもの」に傍点]じゃあるめえ。」
「おれもそう思うがの。」と、弥七はまだ腑に落ちないような顔をしていた。「どう考えても黒めが無暗にあの客人に吠えつくのがおかしい。どうも徒事《ただごと》でねえように思われる。試《ため》しに一つぶっ放してみようか。」
 そう言いながら彼は鉄砲を取り直して、空にむけて一発撃った。その筒音はあたりにこだまして、森の寝鳥がおどろいて起《た》った。重兵衛はそっと引っ返して中をのぞくと、旅人はちっとも形を崩さないで、やはり焚火の煙りの前におとなしく坐っていた。
「どうもしねえか。」と、弥七は小声で訊いた。「おかしいのう。じゃ、まあ仕方がねえ。おれはこれで帰るから、あとを気をつけるがいいぜ。」
 まだ吠えやまない犬を追い立てて、弥七は麓の方へくだって行った。

     三

 今まではなんの気もつかなかったが、弥七におどされてから重兵衛もなんだか薄気味悪くなって来た。まさかにえてもの[#「えてもの」に傍点]でもあるまい――こう思いながらも、彼はかの旅人に対して今までのような親しみをもつことが出来なくなった。かれは黙って中へ引っ返すと、旅人はかれに訊いた。
「今の鉄砲の音はなんですか。」
「猟師が嚇《おど》しに撃ったんですよ。」
「嚇しに……。」
「ここらへは時々にえてもの[#「えてもの」に傍点]が出ますからね。畜生の分際で人間を馬鹿にしようとしたって、そりゃ駄目ですよ。」と、重兵衛は探るように相手の顔をみると、かれは平気で聞いていた。
「えてものとは何です。猿ですか。」
「そうでしょうよ。いくら甲羅経たって人間にゃかないませんや。」
 こう言っているうちにも、重兵衛はそこにある大きい鉈《なた》に眼をやった。すわといったらその大鉈で相手のまっこうを殴《くら》わしてやろうと、ひそかに身構えをしたが、それが相手にはちっとも感じないらしいので、重兵衛もすこし張合い抜けがした。えてものの疑いもだんだんに薄れて来て、彼はやはり普通の旅人であろうと重兵衛は思い返した。しかしそれも束《つか》の間で、旅人はまたこんなことを言い出した。
「これから山越しをするのも難儀ですから、どうでしょう、今夜はここに泊めて下さるわけにはいきますまいか。」
 重兵衛は返事に困った。一時間前の彼であったらば、無論にこころよく承知したに相違なかったが、今となってはその返事に躊躇した。よもやとは思うものの、なんだか暗い影を帯びているようなこの旅人を、自分の小屋にあしたまで止めて置く気にはなれなかった。
 かれは気の毒そうに断った。
「折角ですが、それはどうも……。」
「いけませんか。」
 思いなしか、旅人の瞳《ひとみ》は鋭くひかった。愛嬌に富んでいる彼の眼がにわかに獣《けもの》のようにけわしく変った。重兵衛はぞっとしながらも、重ねて断った。
「なにぶん知らない人を泊めると、警察でやかましゅうございますから。」
「そうですか。」と、旅人は嘲《あざけ》るように笑いながらうなずいた。その顔がまた何となく薄気味悪かった。
 焚火がだんだんに弱くなって来たが、重兵衛はもう新しい枝をくべようとはしなかった。暗い峰から吹きおろす山風が小屋の戸をぐらぐらと揺すって、どこやらで猿の声がきこえた。太吉はさっきから筵《むしろ》をかぶって隅の方にすくんでいた。重兵衛も言い知れない恐怖に囚《とら》われて、再びこの旅人を疑うようになって来た。かれは努めて勇気を振り興して、この不気味な旅人を追い出そうとした。
「なにしろ何時までもこうしていちゃあ夜がふけるばかりですから、福島の方へ
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