た旅人が湯をもらいに来ることもある。そんなことはさのみ珍らしくもないので、親切な重兵衛はこの旅人をも快《こころよ》く迎い入れて、生木《なまき》のいぶる焚火の前に坐らせた。
旅人はまだ二十四五ぐらいの若い男で、色の少し蒼ざめた、頬の痩せて尖った、しかも円い眼は愛嬌に富んでいる優しげな人物であった。頭には鍔《つば》の広い薄茶の中折帽をかぶって、詰襟ではあるがさのみ見苦しくない縞の洋服を着て、短いズボンに脚絆草鞋という身軽のいでたちで、肩には学校生徒のような茶色の雑嚢をかけていた。見たところ、御料林を見分《けんぶん》に来た県庁のお役人か、悪くいえば地方行商の薬売りか、まずそんなところであろうと重兵衛はひそかに値踏みをした。
こういう場合に、主人が旅人に対する質問は、昔からの紋切り形であった。
「お前さんはどっちの方から[#「から」は底本では「なら」]来なすった。」
「福島の方から。」
「これからどっちへ……。」
「御嶽を越して飛騨《ひだ》の方へ……。」
こんなことを言っているうちに、日も暮れてしまったらしい。燈火《あかり》のない小屋のなかは燃えあがる焚火にうすあかく照らされて、重兵衛の四角張った顔と旅人の尖った顔とが、うず巻く煙りのあいだからぼんやりと浮いてみえた。
二
「おかげさまでだいぶ暖かくなりました。」と、旅人は言った。「まだ九月の末だというのに、ここらはなかなか冷えますね。」
「夜になると冷えて来ますよ。なにしろ駒ヶ嶽では八月に凍《こご》え死んだ人があるくらいですから。」と、重兵衛は焚火に木の枝をくべながら答えた。
それを聞いただけでも薄ら寒くなったように、旅人は洋服の襟をすくめながらうなずいた。
この人が来てからおよそ半時間ほどにもなろうが、そのあいだにかの太吉は、子供に追いつめられた石蟹のように、隅の方に小さくなったままで身動きもしなかった。が、彼はいつまでも隠れているわけにはいかなかった。彼はとうとう自分の怖れている人に見付けられてしまった。
「おお、子供衆がいるんですね。うす暗いので、さっきからちっとも気がつきませんでした。そんならここにいいものがあります。」
かれは首にかけた雑嚢の口をあけて、新聞紙につつんだ竹の皮包みを取出した。中には海苔巻のすしがたくさんにはいっていた。
「山越しをするには腹が減るといけないと思って、食い物をたくさん買い込んで来たのですが、そうも食えないもので……。御覧なさい。まだこっちにもこんな物があるんです。」
もう一つの竹の皮包みには、食い残りの握り飯と刻みするめのようなものがはいっていた。
「まあ、これを子供衆にあげてください。」
ここらに年じゅう住んでいる者では、海苔巻のすしでもなかなか珍らしい。重兵衛は喜んでその贈り物を受取った。
「おい、太吉。お客人がこんないいものを下すったぞ。早く来てお礼をいえ。」
いつもならば、にこにこして飛び出してくる太吉が、今夜はなぜか振り向いても見なかった。彼は眼にみえない怖ろしい手に掴《つか》まれたように、固くなったままで竦《すく》んでいた。さっきからの一件もあり、かつは客人の手前もあり、重兵衛はどうしても叱言《こごと》をいわないわけにはいかなかった。
「やい、何をぐずぐずしているんだ。早く来い。こっちへ出て来い。」
「あい。」と、太吉はかすかに答えた。
「あいじゃあねえ。早く来い。」と、父は呶鳴った。「お客人に失礼だぞ。早く来い。来ねえか。」
気の短い父はあり合う生木《なまき》の枝を取って、わが子の背にたたきつけた。
「あ、あぶない。怪我でもするといけない。」と、旅人はあわてて遮《さえぎ》った。
「なに、言うことをきかない時には、いつでも引っぱたくんです。さあ、野郎、来い。」
もうこうなっては仕方がない。太吉は穴から出る蛇のように、小さい体をいよいよ小さくして、父のうしろへそっと這い寄って来た。重兵衛はその眼先へ竹の皮包みを開いて突きつけると、紅い生姜《しょうが》は青黒い海苔をいろどって、子供の眼にはさも旨そうにみえた。
「それみろ、旨そうだろう。お礼をいって、早く食え。」
太吉は父のうしろに隠れたままで、やはり黙っていた。
「早くおあがんなさい。」と、旅人も笑いながら勧めた。
その声を聞くと、太吉はまた顫えた。さながら物に襲われたように、父の背中にひしとしがみ付いて、しばらくは息もしなかった。彼はなぜそんなにこの旅人を恐れるのであろう。小児《こども》にはあり勝ちのひとみしりかとも思われるが、太吉は平生そんなに弱い小児ではなかった。ことに人里の遠いところに育ったので、非常に人を恋しがる方であった。樵夫でも猟師でも、あるいは見知らぬ旅人でも、一度この小屋へ足を入れた者は、みんな小さい太吉の友達であった。どんな人
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