を引っ張って帰れよう。」
「むむ、長居をするとかえってお邪魔だ。」
弥七は旅人に幾たびか礼をいって、早々に犬を追い立てて出た。と思うと、かれは小戻りをして重兵衛を表へ呼び出した。
「どうも不思議なことがある。」と、彼は重兵衛にささやいた。「今夜の客人は怪物じゃねえかしら。」
「馬鹿をいえ。えてもの[#「えてもの」に傍点]が酒やすしを振舞ってくれるものか。」と、重兵衛はあざ笑った。
「それもそうだが……。」と、弥七はまだ首をひねっていた。「おれ達の眼にはなんにも見えねえが、この黒めの眼には何かおかしい物が見えるんじゃねえかしら。こいつ、人間よりよっぽど利口な奴だからの。」
弥七のひいている熊のような黒犬がすぐれて利口なことは、重兵衛もふだんからよく知っていた。この春も大猿がこの小屋へうかがって来たのを、黒は焚火のそばに転がっていながらすぐにさとって追いかけて、とうとうかれを咬み殺したこともある。その黒が今夜の客にむかって激しく吠えかかるのは何か子細があるかも知れない。わが子がしきりにかの旅人を恐れていることも思い合されて、重兵衛もなんだかいやな心持になった。
「だって、あれがまさかにえてもの[#「えてもの」に傍点]じゃあるめえ。」
「おれもそう思うがの。」と、弥七はまだ腑に落ちないような顔をしていた。「どう考えても黒めが無暗にあの客人に吠えつくのがおかしい。どうも徒事《ただごと》でねえように思われる。試《ため》しに一つぶっ放してみようか。」
そう言いながら彼は鉄砲を取り直して、空にむけて一発撃った。その筒音はあたりにこだまして、森の寝鳥がおどろいて起《た》った。重兵衛はそっと引っ返して中をのぞくと、旅人はちっとも形を崩さないで、やはり焚火の煙りの前におとなしく坐っていた。
「どうもしねえか。」と、弥七は小声で訊いた。「おかしいのう。じゃ、まあ仕方がねえ。おれはこれで帰るから、あとを気をつけるがいいぜ。」
まだ吠えやまない犬を追い立てて、弥七は麓の方へくだって行った。
三
今まではなんの気もつかなかったが、弥七におどされてから重兵衛もなんだか薄気味悪くなって来た。まさかにえてもの[#「えてもの」に傍点]でもあるまい――こう思いながらも、彼はかの旅人に対して今までのような親しみをもつことが出来なくなった。かれは黙って中へ引っ返すと、旅人はかれに訊いた。
「今の鉄砲の音はなんですか。」
「猟師が嚇《おど》しに撃ったんですよ。」
「嚇しに……。」
「ここらへは時々にえてもの[#「えてもの」に傍点]が出ますからね。畜生の分際で人間を馬鹿にしようとしたって、そりゃ駄目ですよ。」と、重兵衛は探るように相手の顔をみると、かれは平気で聞いていた。
「えてものとは何です。猿ですか。」
「そうでしょうよ。いくら甲羅経たって人間にゃかないませんや。」
こう言っているうちにも、重兵衛はそこにある大きい鉈《なた》に眼をやった。すわといったらその大鉈で相手のまっこうを殴《くら》わしてやろうと、ひそかに身構えをしたが、それが相手にはちっとも感じないらしいので、重兵衛もすこし張合い抜けがした。えてものの疑いもだんだんに薄れて来て、彼はやはり普通の旅人であろうと重兵衛は思い返した。しかしそれも束《つか》の間で、旅人はまたこんなことを言い出した。
「これから山越しをするのも難儀ですから、どうでしょう、今夜はここに泊めて下さるわけにはいきますまいか。」
重兵衛は返事に困った。一時間前の彼であったらば、無論にこころよく承知したに相違なかったが、今となってはその返事に躊躇した。よもやとは思うものの、なんだか暗い影を帯びているようなこの旅人を、自分の小屋にあしたまで止めて置く気にはなれなかった。
かれは気の毒そうに断った。
「折角ですが、それはどうも……。」
「いけませんか。」
思いなしか、旅人の瞳《ひとみ》は鋭くひかった。愛嬌に富んでいる彼の眼がにわかに獣《けもの》のようにけわしく変った。重兵衛はぞっとしながらも、重ねて断った。
「なにぶん知らない人を泊めると、警察でやかましゅうございますから。」
「そうですか。」と、旅人は嘲《あざけ》るように笑いながらうなずいた。その顔がまた何となく薄気味悪かった。
焚火がだんだんに弱くなって来たが、重兵衛はもう新しい枝をくべようとはしなかった。暗い峰から吹きおろす山風が小屋の戸をぐらぐらと揺すって、どこやらで猿の声がきこえた。太吉はさっきから筵《むしろ》をかぶって隅の方にすくんでいた。重兵衛も言い知れない恐怖に囚《とら》われて、再びこの旅人を疑うようになって来た。かれは努めて勇気を振り興して、この不気味な旅人を追い出そうとした。
「なにしろ何時までもこうしていちゃあ夜がふけるばかりですから、福島の方へ
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