た。
「今の鉄砲の音はなんですか。」
「猟師が嚇《おど》しに撃ったんですよ。」
「嚇しに……。」
「ここらへは時々にえてもの[#「えてもの」に傍点]が出ますからね。畜生の分際で人間を馬鹿にしようとしたって、そりゃ駄目ですよ。」と、重兵衛は探るように相手の顔をみると、かれは平気で聞いていた。
「えてものとは何です。猿ですか。」
「そうでしょうよ。いくら甲羅経たって人間にゃかないませんや。」
 こう言っているうちにも、重兵衛はそこにある大きい鉈《なた》に眼をやった。すわといったらその大鉈で相手のまっこうを殴《くら》わしてやろうと、ひそかに身構えをしたが、それが相手にはちっとも感じないらしいので、重兵衛もすこし張合い抜けがした。えてものの疑いもだんだんに薄れて来て、彼はやはり普通の旅人であろうと重兵衛は思い返した。しかしそれも束《つか》の間で、旅人はまたこんなことを言い出した。
「これから山越しをするのも難儀ですから、どうでしょう、今夜はここに泊めて下さるわけにはいきますまいか。」
 重兵衛は返事に困った。一時間前の彼であったらば、無論にこころよく承知したに相違なかったが、今となってはその返事に躊躇した。よもやとは思うものの、なんだか暗い影を帯びているようなこの旅人を、自分の小屋にあしたまで止めて置く気にはなれなかった。
 かれは気の毒そうに断った。
「折角ですが、それはどうも……。」
「いけませんか。」
 思いなしか、旅人の瞳《ひとみ》は鋭くひかった。愛嬌に富んでいる彼の眼がにわかに獣《けもの》のようにけわしく変った。重兵衛はぞっとしながらも、重ねて断った。
「なにぶん知らない人を泊めると、警察でやかましゅうございますから。」
「そうですか。」と、旅人は嘲《あざけ》るように笑いながらうなずいた。その顔がまた何となく薄気味悪かった。
 焚火がだんだんに弱くなって来たが、重兵衛はもう新しい枝をくべようとはしなかった。暗い峰から吹きおろす山風が小屋の戸をぐらぐらと揺すって、どこやらで猿の声がきこえた。太吉はさっきから筵《むしろ》をかぶって隅の方にすくんでいた。重兵衛も言い知れない恐怖に囚《とら》われて、再びこの旅人を疑うようになって来た。かれは努めて勇気を振り興して、この不気味な旅人を追い出そうとした。
「なにしろ何時までもこうしていちゃあ夜がふけるばかりですから、福島の方へ
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