手もゆるむであろう。自分の疲労も完全に回復するであろう。その上で奥州方面にむかって落ちてゆく。差しあたりそれが最も安全の道であろうと思った。
治三郎は又引っ返した。雨にまぎれて足音をぬすんで、かの農家の横手にまわって、型ばかりの低い粗い垣根を乗り越えて、物置小屋へ忍び込んだ。雨の日はもう暮れかかっているのと、母屋《おもや》は厳重に戸を閉め切っているのとで、誰も気のつく者はないらしかった。
薄暗いのでよく判らないが、小屋のうちには農具や、がらくた道具や、何かの俵のような物が積み込んであった。それでも身を容れる余地は十分にあるので、治三郎は荒むしろ二、三枚をひき出して土間に敷いて、疲れたからだを横たえた。さっきまでは折おりにきこえた鉄砲の音ももう止んだ。そこらの田では蛙がそうぞうしく啼いていた。
雨の音、蛙の音、それを聴きながら寝ころんでいるうちに、治三郎はいつしかうとうとと眠ってしまった。その間に幾たびかお七の鶏の夢をみた。ときどき醒めては眠り、いよいよ本当に眼をあいた時は、もう夜が明けていた。夜が明けるどころか、雨はいつの間にか止んで、夏の日が高く昇っているらしかった。
「寝過したか。」と、治三郎は舌打ちした。
夜が明けたら早々にぬけ出す筈であったのに、もう午《ひる》になってしまった。捜索の手がゆるんだといっても、落武者の身で青天白日のもとを往来するわけにはゆかない。なんとか姿を変える必要がある。もう一度ここの家の者に頼んで、百姓の古着でも売って貰わなければなるまい。そう思って起きなおる途端に、小屋の外で鶏の啼き声が高くきこえた。治三郎はふとお七の夢を思い出した。
又その途端に、物置の戸ががらりとあいて、若い女の顔がみえた。はっと思ってよく視ると、それは夢に見たお七の顔ではなかった。しかもそれと同じ年頃の若い女で、おそらくここの家の娘であろう。内を覗いて、かれもはっとしたらしかった。
「早く隠れてください。」と、娘は声を忍ばせて早口に言った。
隠れる場所もないのである。捜索隊に見付かったら百年目と、かねて度胸を据えていたのであるが、さてこの場合に臨むと、治三郎はやはり隠れたいような気になって、隅の方に積んである何かの俵のかげに這い込んだ。しかも、これで隠れおおせるかどうかは頗る疑問であるので、素破《すわ》といわば飛び出して手あたり次第に斬り散らして逃げる覚悟で、彼はしっかりと大小を握りしめていた。娘はあわてて戸をしめて去った。
鶏の声が又きこえた。表に人の声もきこえた。
「物置はここだな。」
捜索隊が近づいたらしく、四、五人の足音がひびいた。家内を詮議して、更にこの物置小屋をあらために来たのであろう。治三郎は片唾《かたず》をのんで、窺っていた。
「さあ、戸をあけろ。」という声が又きこえた。
家内の娘が戸をあけると、二、三人が内をのぞいた。俵のかげから一羽の雌鶏《めんどり》がひらりと飛び出した。
「むむ、鶏か。」と、かれらは笑った。そうしてそのまま立去ってしまった。
治三郎はほっとした。頼朝の伏木隠れというのも恐らくこうであったろう。彼等は鶏の飛び出したのに油断して、碌々に小屋の奥を詮議せずに立去ったらしい。鶏はどうしてここにいたか。娘が最初に戸をあけた時に、その袂の下をくぐって飛び込んだのかも知れない。
娘が治三郎にむかって早く隠れろと教えたのは、彼に厚意を持ったというよりも、ここで彼を召捕らせては自分たちが巻き添いの禍《わざわい》を蒙るのを恐れた為であろう。鶏が飛び込んだのは偶然であろうが、今の治三郎には何かの因縁があるように考えられた。彼は又もやお七の夢を思い出した。
「お話はこれぎりです。」と、治三郎老人は言った。「その場を運よく逃れたので、今日《こんにち》までこうして無事に生きているわけです。雁鍋でお七の夢をみたのは、その日の午前《ひるまえ》に円乗寺へ墓まいりに行ったせいでしょう。前にもいう通り、なぜ其の時にお七の墓を見る気になったのか、それは自分にも判りません。又その夢が〈一話一言〉の通りであったのも、不思議といえば不思議です。私はそれまで確かに〈一話一言〉なぞを読んだことはなかったのです。箕輪の百姓家に隠れている時に、どうして二度目の夢をみたのか、それも判りません。まさかにお七の魂が鶏に宿って、わたしを救ってくれたわけでもありますまいが、なんだか因縁があるように思われないでも無いので、その後も時々にお七の墓まいりに行きます。夢は二度ぎりで、その後に一度も見たことはありません。」
[#地から2字上げ]昭和九年十月作「サンデー毎日」
底本:「鎧櫃の血」光文社文庫、光文社
1988(昭和63)年5月20日初版1刷発行
1988(昭和63)年5月30日2刷
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年6月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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