事情でお七の碑を建立するについて、あからさまにその事情を明かし難く、夢に托して然るべく取計らったものであろうと察せられる。
 私がこんなことを長々と書いたのは、お七の石碑の考証をするためではない。そういう考証や研究は他に相当の専門家がある。私が今これだけのことを書いたのは、ある老人からそれに因《ちな》んだ昔話を聞かされたからである。その話の受売りをする前提として、昔もこういう事があったと説明を加えて置いたに過ぎない。
 そこで、その話は「一話一言」よりも八十余年の後、さらに円乗寺の寺記よりも二十三年の後、すなわち慶応四年五月の出来事で、私にそれを話した老人は石原治三郎(仮名)という三百五十石の旗本である。治三郎はその当時廿八歳で、妻のお貞は廿三歳、夫婦のあいだにお秋という今年四歳になる娘があった。慶応四年――それがいかなる年であるかは今更説明するまでもあるまい。石原治三郎が四谷の屋敷を出て、上野の彰義隊に加わったのは、その年の四月中旬であった。
 彰義隊らとは成るべく衝突を避けて、無事に鎮撫解散させるのが薩長側の方針であったから、直ぐには攻めかかって来ない。彰義隊士も一方には防禦の準備
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