政年中に岩井半四郎がお七の役で好評を博した為に、円乗寺内に石塔を建立したのに始まる。要するに、半四郎の人気を煽ったのである。お七のために幸いでないとは言えない。
お七の墓のほとりにある阿弥陀像の碑について、円乗寺の寺記には、
「又かたはらに弥陀尊像の塔あり。これまたお七の菩提のために後人の建立しつる由なれど、施主はいつの頃いかなる人とも今明白に考へ難し。或はいふ、北国筋の武家|何某《なにがし》、夢中にお七の亡霊告げて云ふ、わが墳墓は江戸小石川なる円乗寺といふ寺にあれども、後世を弔ふもの絶えて、安養世界に常住し難し、されば彼の地に尊形の石塔を建て給はゞ、必ず得脱成仏すべしと。これによって遙に来りて、形の如く営みけるといへり。云々《うんぬん》。」
この寺記は同寺第二十世の住職が弘化二年三月に書き残したもので、蜀山人の「一話一言」よりも六十年余の後である。同じ住職の説くところでも、天明時代の住職と弘化時代の住職との話のあいだには、かなりの相違がある。しかもお七の亡霊が武家に仕える者の夢に入って、石碑建立の仏事を頼んだということは一致しているのである。いずれにしても武家に縁のある人が何かの事情でお七の碑を建立するについて、あからさまにその事情を明かし難く、夢に托して然るべく取計らったものであろうと察せられる。
私がこんなことを長々と書いたのは、お七の石碑の考証をするためではない。そういう考証や研究は他に相当の専門家がある。私が今これだけのことを書いたのは、ある老人からそれに因《ちな》んだ昔話を聞かされたからである。その話の受売りをする前提として、昔もこういう事があったと説明を加えて置いたに過ぎない。
そこで、その話は「一話一言」よりも八十余年の後、さらに円乗寺の寺記よりも二十三年の後、すなわち慶応四年五月の出来事で、私にそれを話した老人は石原治三郎(仮名)という三百五十石の旗本である。治三郎はその当時廿八歳で、妻のお貞は廿三歳、夫婦のあいだにお秋という今年四歳になる娘があった。慶応四年――それがいかなる年であるかは今更説明するまでもあるまい。石原治三郎が四谷の屋敷を出て、上野の彰義隊に加わったのは、その年の四月中旬であった。
彰義隊らとは成るべく衝突を避けて、無事に鎮撫解散させるのが薩長側の方針であったから、直ぐには攻めかかって来ない。彰義隊士も一方には防禦の準備
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