ばわりをする叔父のむかし気質《かたぎ》を、外記は肚《はら》の中であざわらった。命を惜しむ卑怯者といちずに自分を認めるのは間違っている。勿論、自分は人のために死のうとは決して思わないが、自分のためならなんどきでも命を捨てて見せる。外記は死を恐れる卑怯者か臆病者か、いまに叔父にもよく判る時節があろうと、彼は口をむすんで再びなんにも言わなかった。
刀を鞘《さや》に納めたものの、五郎三郎はもうここに長居もできなかった。すぐに帰り支度をして、彼はお縫と三左衛門とに送られて出た。玄関を出るときに五郎三郎は二人にささやいて、外記は魂のぬけた奴、この上にどんな曲事《きょくじ》を仕出来《しでか》そうも知れない。お前たちも油断なく気をくばって、もし思案に能《あた》わぬことがあったら直ぐにおれのところへ知らせて来いと言った。
「おのれの心ひとつで一家一門、家来にまで苦労をかける。困った奴だ」
五郎三郎の眼には涙が浮かんだ。草履取りを連れて出てゆくその人のうしろ姿を、お縫も三左衛門も陰った顔でいつまでも見送っていた。
それから半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》ほども過ぎた。塀の内には蝉の声もいつか衰えて、初秋のうすい日影は霧につつまれたように暮れかかった。屋敷町の門前にも盆燈籠を売るあきんどが通った。
白い帷子《かたびら》に水色の羽織を着た外記が門を出た。
八
箕輪のお時の家でも仏壇に精霊棚《しょうりょうだな》を作って、茄子《なす》の牛や瓜《うり》の馬が供えられた。かわらけの油皿《あぶらざら》には燈心の灯が微かに揺らめいていた。六十ばかりの痩せた僧が仏壇の前で棚経《たなぎょう》を読んでいた。
回向《えこう》が済むと、僧は十吉が汲んで来た番茶を飲みながら、きょうは朝から湯島神田|下谷《したや》浅草の檀家を七、八軒、それから廓《くるわ》を五、六軒まわって来たが、なかなか暑いことであったなどと口では忙がしそうなことを言いながら、悠々と腰を据えて話し込んでいた。寺は下谷にあるが、今どきに珍らしい無欲の僧で、ここらは閑静でいいと頻《しき》りに羨ましそうに言った。
「おお、池の蓮が見事に開きましたのう」
彼は帰るきわに蓮池をしばらく眺めていた。いつも気軽な和尚さまだと、帰ったあとでお時が噂をしていた。
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※[#歌記号、1−3−28]ぼんぼん盆はきょうあすばかり、あしたは嫁のしおれ草。
[#ここで字下げ終わり]
村の子供たちがこんな盆唄をうたって通った。その群れのあとからお米も来た。
「十さん。まだお寺へ行かないの」
盆の十三日には魂《たま》迎えとして菩提寺《ぼだいじ》へ詣るのが習わしである。いつもお時が詣るのであるが、ことしは十吉が代って行くことになって、お米も夕方から一緒に行く約束であった。
「じゃあ、おっかさん。もうそろそろ行こうかね」と、十吉が言った。
「ああ、暗くならないうちに行っておいで。和尚さまは池の蓮をたいそう褒めていなすったから、ついでに少し取って行って上げたらよかろう」
十吉は蓮池のそばへ行って紅と白とを取りまぜて五、六本の花を折った。涼しい風は水の上に渡って、夕暮れの色は青い巻き葉のゆらめく蔭からおぼろに浮かんで来た。お米と十吉とは仲よく肩をならべて出て行った。やがて自分の嫁にする娘かと思うと、歳よりもませたようなお米のうしろ姿がお時の眼にはかえって可愛らしくも見えて、彼女は思わずほほえまれた。二人が出て行くとき、綾衣も襖を細目にあけて見送っていた。
秋をうながすような盆唄の声がまた聞えた。近くきくと騒々《そうぞう》しい唄のこえも、遠くとおく流れて来るとなんだか寂しい哀れな思いを誘い出されて、お時は暮れかかる軒の端《は》を仰いだ。軒には大きい切子燈籠《きりこどうろう》が長い尾を力なくなびかせて、ゆう闇の中にしょんぼりと白い影を迷わせていた。
ここらは冬の初めまで蚊を逐《お》わなければならなかった。お時は獣《けもの》の形をした土の蚊いぶしを縁に持ち出して、枯れた松葉や杉の葉などをくべた。それから切子燈籠に灯を入れた。
こうして働いているうちも、彼女はお米と十吉とのほかに、絶えず思うことが胸の奥にまつわっていた。
綾衣が廓に近いこの箕輪に隠れてからもうひと月余りにもなる。大菱屋の眼がここにとどかないのはむしろ不思議といってもいい位で、その不思議がいつまで続くかは疑問であった。いくら奥深く忍んでいても、元来が狭いあばら家である。ここらに見馴れない彼女の媚《なまめ》いた艶《あで》すがたはいつか人の眼について、十吉の家にはこのごろ妙な泊まり客がいるようだと、村の若い衆たちの茶話《ちゃばなし》にものぼっていることを、お米からそっと知らされて、母子は寿命が縮まるほどに気を痛めた。決して邪魔にする気ではないが、綾衣をこうして預かっていることは、火の中にある毬栗《いがぐり》を守っているよりも更にあぶないと思われた。しょせんは時間の問題で、永久に破裂を防ぐことの出来ないのは母子もあらかじめ覚悟していなければならなかった。
秘密が破裂したあかつきは第一に殿様のおためにならない。大菱屋から拐引《かどわかし》を言い立てられたら、あるいは殿様の御身分にかかわるようなことが出来《しゅったい》しないとも限らない。母子は何よりも先ずこれを恐れていた。
そうなれば殿様ばかりでない。綾衣の為にもならないのは知れている。ひいては自分たちも迷惑を被《かぶ》るに相違ない。それとこれとを考え合わせると、不人情のようではあるが、お時はどうかして綾衣を遠ざけたいように思った。さりとてほかに行く所のないのは判っているので、彼女は綾衣にむかって、いっそ廓へ帰るようにそれとなく意見したこともあった。
殿様を大事と思うならば、どうか廓へ帰ってくれと、お時もしまいには打ち明けて言った。遅かれ速かれこの事が露顕したら、殿様の御身分にもかかわる、五百石のお家にも瑕が付く、そこを察してくれと、彼女は涙を流して口説いたが、綾衣は肯《き》こうともしなかった。
なるほどお前の心では五百石のお家が大切でもあろうが、くるわに育った自分の眼から見れば、五百石や千石はおはぐろ溝へ流す白粉の水も同じことである。百万石でも買われないのは廓の女の誠ではないか。それほど尊い女の誠を五百石で買ったと思えば廉《やす》いもので、ちっとも惜しいことはあるまいと、彼女は誇り顔《が》に言い放してお時を驚かした。
綾衣はまたこうも言った。
殿様がこうなったのは無論わたしの為であるが、わたしがこうなったのもまた殿様の為である。いわば両方が五分五分で秤《はかり》にかけたら重い軽いはないはずである。殿様に死ぬようなことがあればわたしも死ぬ。わたしに死ぬようなことがあれば殿様も死ぬ。それよりほかにはもう二人の行く道はないので、わたしの為に殿様が家を亡ぼしたとか、身を滅したとかいう風に思い違いをされては困る。わたしはこの末たといどうなろうとも、露ほども殿様を恨もうとは思わない。殿様もまたわたしに不足をいう道理がない。まあ、お前がたは黙って見物していてくれというのであった。
そのことばの裏には或る怖ろしい覚悟が潜《ひそ》んでいるらしく思われたので、お時はさらに胸を冷やした。この上になおも無理なことを言い出したら、二人はいよいよ突き詰めてどんなことを仕でかすかも知れない。お時はそれを想像するさえ身の毛がよだった。もうこうなったら黙って成り行きを窺っているよりほかはないと、お時は腫れものに触《さわ》るようなおびえた心持ちで、遠くからそっと二人を眺めていた。
しかし、どう考えても此のままで済もうとは思われなかった。やがて廓の颶風《はやて》がここへ舞い込んで来て、それからいろいろの渦を巻き起すことはありありと眼に見えているので、お時は毎朝の空を眺めて、きょうが其の破滅の悪日《あくび》ではないかと、いつも怖ろしい予覚におびやかされていた。
きょうは盆の十三日で、亡き人の魂《たま》がこの世に迷って来るという日である。亡き魂と死と、こんなことを考えるとお時の心はいよいよ暗くなった。多年住み馴れているわが家も今夜に限ってなんだか薄ら寂しく、十吉が早く帰って来ればいいと待ち侘びしかった。
堤下《どてした》の浄閑寺《じょうかんじ》で夕《くれ》の勤めの鉦《かね》が途切れとぎれに聞えた。
さっき行水《ぎょうずい》を終った綾衣は、これも寂しい思いで鉦の音を聴いていた。微かにきざんでゆく鉦の音は胸に沁みるようであった。浄閑寺は廓の女の捨て場所であるということも、今更のように考えられた。運の悪い病気の女は日の目も見えないような部屋へ押し込まれて、碌々に薬も飲まされないで悶《もだ》え死にする。その哀れな亡骸《なきがら》は粗末な早桶を禿《かむろ》ひとりに送られて、浄閑寺の暗い墓穴に投げ込まれる。そうした悲惨な例は彼女も今までにしばしば見たり聞いたりしていた。それでも寿命がつきて死んだ者はまだいい。心中してわれから命を縮めた者は、同じ浄閑寺の土に埋められながらも、手足を縛って荒菰に巻かれて、犬猫にも劣った辱《はず》かしめを受けるのである。
その人たちの迷った魂は今夜の魂迎えにどこへ招かれて行くであろう。自分のからだも、やがては浄閑寺へ送られて、土の下からあの鉦の音を聴くようになるのかと思うと、綾衣もなんだか気が沈んで、生きながら暗いところへ引き入れられるようにも感じた。おさない時に死に別れた父母のことも思い出された。十九の歳に芝のあきんどから身請けの相談があったが、抱え主は金で折り合わず、自分も気に入らないので断わったが、あの時に請け出されていたら今頃はどうなっているだろうなどとも考えた。お米と十吉とがやっぱり羨ましくも思われた。
表はすっかり暮れてしまって、暗い空にはかぞえるほどの少ない星が弱々しく光っていた。露のおもい夜の空気は冷やびやと人の肌に触れた。村の家々では迎い火を焚きはじめた。竹籬《たけがき》のあいだや軒下に寂しい火の光りがちらちら[#「ちらちら」に傍点]ひらめいて、黒い人影や白い浴衣が薄暗いなかに動いていた。お時も焙烙《ほうろく》に苧殻《おがら》を入れて庭の入り口に持ち出した。やがて火打ちの音がやむと、お時の手を合わせている姿が火の前にぼんやりと浮き出した。
白い帷子《かたびら》を着ている外記が、いつの間にか苧殻の白い煙りの中に立っていた。お時はようよう気がついた。
「ああ、殿様」と、彼女は表を窺いながら小声で言った。「ほかに誰もおりませぬ。さあ、お通り遊ばしませ」
外記は編笠《あみがさ》をぬいで縁にあがった。お時は迎い火を消して、同じく内にはいった。
外記がはいって来た気配を知ると、綾衣は眼が醒めたように俄かに晴れやかな気分になって、今まで何を考えていたかも忘れてしまった。浄閑寺の鉦も耳へははいらなくなった。彼女はついと起って襖を明けて、男の顔を見て眼で笑った。
「相変らず藪蚊がひどうござります」と、お時は奥へ蚊帳《かや》を吊りに行ったあいだに、綾衣は縁に近いところへ出て坐った。そこにある渋団扇をとって軽くあおぐと、薄化粧の白粉の匂いはほんのりと流れて、やわらかい風をそよそよと男に送った。
「今夜は廓の騒唄《さわぎ》が一向きこえないようだな」と、外記は縁の柱にもたれながら耳を傾けた。
綾衣は笑い出した。
「ほほ、ぬしにも似合わないことを言いなんす。きょうは盆の十三日で、廓は休みでおざんすものを……」
「なるほど今日は十三日か」と、外記も笑った。
綾衣もまた笑った。
他愛もないことが堪まらなくおかしいように笑う女の声があまり華やかに聞えるので、お時は表に眼をくばった。彼女は追い立てるように二人を蚊帳の中へ送り込んで、間《あい》の襖を閉め切った。
お米も十吉もまだ帰らなかった。
九
お時が再び蚊いぶしの火を吹いていると、蚊帳の中から外記が声をかけた。
「気の毒だがいつもの通り、なにか酒と肴を見つくろって来てくれ」
「は
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