ようにうす明かるい初夏の光りが洩れた。しめり切って重そうにうなだれている庭の若葉は、そよ吹く風に身ぶるいをして青いしずくを振るいおとした。田圃でも池でも蛙がまた鳴き出した。十吉は縁に腰をかけて、濡《ぬ》れた土に三つ四つころげている青梅の実を眺めていたが、やがてふいと眼をあげて表を見た。
 まばらな竹籬《たけがき》の外に立って、お米は息を殺したようなふうで一心に内を覗いていた。いつもは遠慮なしにはいって来るのに、きょうは竹籬を境にして迂闊に庭へ踏み込もうとはしなかった。十吉があごで招いても、彼女は無言で情《すげ》なく頭《かぶり》をふった。
「おっかさんはいない。おはいりよ」と、十吉は小声で呼んだ。が、お米はやはり拗《す》ねたようにためらっていた。
 十吉は低い下駄を突っかけて、庭の水溜りを蛙のように飛び越えながら竹籬の外へ出た。そうして、まだ素直に来そうもないお米の手を取って、無理に内へ連れ込んで来たが、お米はやはり立ったままで縁に腰をおろそうともしなかった。
「この頃ちっとも来なかったね」
「来るとお邪魔だろうと思って……」と、お米はことし十六の小娘に似合わない、怖い眼をして十吉を睨んだ。その眼がしらには涙が浮いていた。
 十吉には理屈が判らなかった。
「どうかしたの」と、彼は不思議そうにお米の顔をのぞくと、相手は顔をそむけて手拭を眼に当てた。すすり泣きをしているらしい。十吉も手が着けられなかった。しかし、打っちゃっても置かれないので女の肩に手をかけて無理に縁に押し据えて、いろいろに宥《なだ》めながら子細を訊くと、お米の小さい胸には思いも付かない妬みの火が燃えていた。納戸《なんど》の奥に封じ込めておいた美しい駈落ち者を、お米はいつか見つけ出していたのであった。
 なんにも知らない、まして歳の行かないお米は、その美しい女をいちずに自分の仇と呪って、あわせてお時を怨んだ、取り分けて十吉を恨んだ。もう二度とここの家へは足踏みをしまいと思ったが、その位でとても堪忍のできることではなかった。彼女はこの頃の雨にぬれながら時どきに様子を窺いに来たが、懸け違って外記の姿を見つける機会はなくて、あいにくにいつもお時や十吉がその憎い女と睦まじそうに語らっているところばかりが、彼女の疑いの眼に映った。お米の胸は妬みの火にやけただれた。
 きょうも自分の家の前でお時に逢ったが、お米はわざと顔をそむけていた。田圃づたいに長い堤をあがってゆくお時のうしろ影を腹立たしいような心持ちでしばらく見送っていたお米は、母の留守を幸いに女と差し向かいになっている十吉のことを考えると、総身の血が沸き上がって頭がぐらぐら[#「ぐらぐら」に傍点]して来た。彼女は前後の分別もなしに家を駈け出して、垣根越しに内の様子を覗きに来たのであった。
「そりゃあ飛んでもない間違いだ」
 十吉は呆れたような、困ったような眼をみはって、しばらく黙っていた。お米は縁に俯伏したままで肩をゆすって泣いていた。
「ありゃあ少しわけがあって、よそから預かっているお人だ」と、十吉はお米の耳に低くささやいたが、疑いに凝り固まっているお米は容易に肯《き》かなかった。
 あの女はどこの何者で、誰に頼まれて預かってあるということを、十吉は詳しく説明するのを恐れた。殿様を大事に思う正直|一途《いちず》の心から、お時は固く十吉を戒めて、誰にもこの秘密を明かしてはならない、お米にも決して明かしてはならないと言い含めて置いた。母の血を受けて生まれた十吉は、この戒めを破るには余りに正直過ぎていた。ましてこういう場合のあることを夢にも予想していなかった彼は、お米の疑いを解くに適当な手段を考え出すことができなかった。
「わたしが何でほかの女なぞを連れて来るものか、積もって見ても知れたことだ。まあ、黙って見ているがいい。あとで自然に判るから」
 十吉はこんなことを小声で繰り返していた。一方にはお米をなだめながら、また一方にはこんなことを奥の人の耳に入れるのも恥かしいように思ったので、お米の泣き声が高くなるほど、彼は奥を憚《はばか》ってはらはら[#「はらはら」に傍点]していた。
 あの女はどこの誰だとお米は執念ぶかく問い詰めたが、十吉ははっきり答えることができないで、相変らずおどおどしているので、一途《いちず》に突き詰めた若い女の胸はもう張り切って破れそうになった。
「覚えているがいい」
 持っていた手拭を男に叩き付けてお米は衝《つ》と起った。顔いっぱいの涙を丸めた袂で強く拭いたかと思うと、彼女は忽ち跣足《はだし》になって、横手の蓮池を目ざしてつかつか[#「つかつか」に傍点]と駈け出した。池はこの頃の雨に水嵩《みずかさ》をおびただしく増して、蓮の浮き葉は濁った泥の浪に沈んでいた。
 十吉はおどろいた。これも跣足になって駈け出して、もうひと足のところを汀《みぎわ》から危うく曳き戻した。お米は狂人のように身をもがいたが、男の力にはかなわないで再び縁さきまで泣きながらよろけて帰った。
 奥にひそんでいる問題の人はこの争いをさっきから窺っていて、出ようか出まいかと躊躇していたが、もう堪まらなくなって襖《ふすま》をあけた。彼女はしずかに縁さきに出て、そこに泣き倒れているお米の肩をやさしくなでた。
「もし、お米さんとかいう子、お前も短気はやめなんし。わたしはこう見えてもほかに立派な男がおざんす。ここの家《うち》のお嫁かなんぞのように疑われては、十さんも迷惑、わたしも馬鹿らしゅうおす。もういい加減に泣くのを止めて、十さんと仲好くおしなんし」
 まだ腑に落ちないような恨み顔をしているお米にむかって、綾衣はしみじみと言って聞かせた。相手の名はあらわには明かされないが、自分は廓にいる時から或る武家と言い交して、それがために駈落ちの日かげ者となってこの家に隠まわれている。十さんがそれを秘《かく》しているのは、つまりわたし達のためを思うからのことで、お前の疑うのは無理もないが、疑われた十さんは実に気の毒である。決して思い違いをしてはならないと言った。
 お米も漸《ようや》く疑いがほぐれて来た。今までは垣覗きの遠目でよく判らなかったが、こうして顔と顔とを突き合わせて親しくその人をみあげると、その鈴を張ったような大きい眼、しっかりと結んでいる口もとに、犯し難い一種の威をもっているようにも思われて、お米はなんだかまぶしく感じられた。しかもその眼には偽らない誠の光りがひそんで、その口には優しいなさけがこもっていることも、彼女の心を惹き付けた。この人が自分を欺《だま》そうとはお米もさすがに思われなかった。彼女はおとなしく聴いていた。
 綾衣は又こんなことを言った。
 お前が十さんと約束のあることは、わたしもここの阿母《おっか》さんから聴いて知っている。こうして列べて見たところが丁度似合いの夫婦である。お前さん達は羨ましい。たとい一生を藁ぶき屋根の下に送っても、思い合った同士が仲よく添い遂げれば、世に生きている甲斐がある。いくら花魁の、太夫のと、うわべばかりに綺羅《きら》を飾っても、わたし達の身の果てはどう成り行くやら。仕合せに生まれた人たちと不仕合せに生まれた者とは、こうも人間の運が違うものか。返すがえすもお前さん達が羨ましくてならない。
 こう言ううちにも綾衣はやるせないように胸を抱えて、しばたたく睫毛《まつげ》には白い露が忍んでいた。深いわけは知らないながらも、お米もなんだか引き入れられるように心さびしくなって、さっきの恨みとはまた違った悲しみに、あたらしい涙がおのずと湧き出るのを押さえることができなかった。
「実はそういう訳なんだから、このお人のことを決して誰にも言うんじゃないぜ」と、十吉は固く念を押した。お米は決して他言はしないといった。両親にさえも言わないと誓った。
 世間をおそれる身が長く端居《はしい》はできないので、二人の仲直りを見とどけて綾衣は早々に奥へはいった。昼でも暗い納戸には湿《しめ》って黴《かび》臭い空気がみなぎっていた。人を慕ってすぐに襲って来る藪蚊の唸り声におびやかされて、綾衣はあわてて渋団扇《しぶうちわ》を手にとった。
 間違って人に妬まれた我が身が、今はかえって人を妬ましいように思わなければならなかった。綾衣は実にお米と十吉とを妬ましいほどに羨ましく思った。彼女は時どきに団扇の手を休めて、二人のささやきに耳を引き立てた。
 怨む、怒る、泣く、笑う、それが覗きからくりのように瞬くうちに変ってゆく若い同士の埒《らち》なさを、綾衣はただ馬鹿らしいとばかりは思えなかった。外記と馴染みそめたその当座は、自分たちの間にもそうしたおさない他愛ない痴話《ちわ》や口説《くぜつ》の繰り返されたことを思い出して、三年前の自分がそぞろに懐かしくなった。
「盂蘭盆が過ぎたら……」と、十吉の声がきこえた。
「家《うち》のおっかさんもそう言っていた」と、お米の声も低くきこえた。
 盂蘭盆が過ぎたらいよいよ祝言をするというのではあるまいかと、綾衣は想像した。自分はその盂蘭盆まで生きていられる命だろうか。綾衣の肉は微かにおののいた。剣難の相があると言われたことも今更のように思い出された。
 遠くで雷《らい》の音がひびいた。かみなり嫌いの綾衣はいよいよ神経が鋭くなった。
 自分にも恋はある。あの子供らしい人たちがもっているのよりも、更に深い強い実《み》の入ったものをもっている。なんでよその恋が羨ましかろう。妬ましかろう。しかし自分たちは蜘蛛《くも》の巣にかかった蝶や蜻蛉《とんぼ》のように、苦しい、切ない、むごい、やがては命をとられそうな怖ろしいきずなに手足をくくられて悶《もが》いている。それに引き替えて、あの人たちは自由である。花野を自由自在に飛びまわる蝶や蜻蛉である。綾衣はその自由が羨ましく妬ましく思われてならなかった。妬み深いのは廓の女の癖であると、彼女は自分で自分を戒めて、ひとを羨むのは恥かしいとも思った。妬むのはおとなげないとも思い直した。そうは思いながらも、二人の低い笑い声などが耳にはいると、綾衣は襖越しに何か皮肉なことばでも投げつけてやりたいような気がしないでもなかった。
「ほんに馬鹿らしい」と、綾衣は自分をまた叱った。外記の来る夜のことを考えたら、十吉の邪魔などのできた義理ではない。自分はなぜこう心がひがんで来たのかと、彼女はおのれを卑しみながら心はやっぱり二人の話し声の方に惹きつけられていた。
 家《うち》じゅうが急に暗くなったと思うと、窓に近い蓮池に雨の音がばらばら[#「ばらばら」に傍点]と聞えた。
「また降って来た」という十吉の声といっしょに、激しい雷が屋根の上をころげ廻るように鳴って通った。綾衣は思わず両手で耳をふさいだ。雨は滝のように降って来た。雷はつづけて鳴った。
 こういう時に外記が来あわせていて、二人が抱き合ったままでこの雷に撃たれて死んだら、いっそ思い切りがよかろうと綾衣はかんがえた。
 お時はずぶ[#「ずぶ」に傍点]濡れになって帰って来た。

     七

 廓をぬけ出した綾衣のゆくえは大菱屋でも手を分けて詮議していた。相手が外記であることは大抵察しているものの、痩せても枯れても天下の旗本という名に対して迂闊に懸け合いはできない。こっちに確かな証拠を握っていない以上は、逆捻《さかね》じに言いがかりを付けられて、飛んだ目に逢うことがある。玉《たま》をどこへか忍ばして置いて、抱え主から懸け合いの来るのを待っているなどは、この頃の悪《わる》旗本や悪|御家人《ごけにん》には珍らしくない。大菱屋でもそれを懸念して、外記の屋敷の方へは容易に取ってかからなかった。
 女は屋敷内に隠れていそうもない、きっと他に忍ばしてあることと大菱屋では睨んだ。今は両親《ふたおや》とも死に絶えてしまったが、綾衣は神田の生まれで、そこには遠縁の者があるとか聞いているので、まずそこらへ探りを入れているがまだ手がかりはない。
 お時が馬道から聞き出して来た噂はこれだけに過ぎなかったが、とにかくに屋敷の方へは直接に懸け合い込まないというので、綾衣も安
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