痛めた。決して邪魔にする気ではないが、綾衣をこうして預かっていることは、火の中にある毬栗《いがぐり》を守っているよりも更にあぶないと思われた。しょせんは時間の問題で、永久に破裂を防ぐことの出来ないのは母子もあらかじめ覚悟していなければならなかった。
 秘密が破裂したあかつきは第一に殿様のおためにならない。大菱屋から拐引《かどわかし》を言い立てられたら、あるいは殿様の御身分にかかわるようなことが出来《しゅったい》しないとも限らない。母子は何よりも先ずこれを恐れていた。
 そうなれば殿様ばかりでない。綾衣の為にもならないのは知れている。ひいては自分たちも迷惑を被《かぶ》るに相違ない。それとこれとを考え合わせると、不人情のようではあるが、お時はどうかして綾衣を遠ざけたいように思った。さりとてほかに行く所のないのは判っているので、彼女は綾衣にむかって、いっそ廓へ帰るようにそれとなく意見したこともあった。
 殿様を大事と思うならば、どうか廓へ帰ってくれと、お時もしまいには打ち明けて言った。遅かれ速かれこの事が露顕したら、殿様の御身分にもかかわる、五百石のお家にも瑕が付く、そこを察してくれと、彼女は涙を流して口説いたが、綾衣は肯《き》こうともしなかった。
 なるほどお前の心では五百石のお家が大切でもあろうが、くるわに育った自分の眼から見れば、五百石や千石はおはぐろ溝へ流す白粉の水も同じことである。百万石でも買われないのは廓の女の誠ではないか。それほど尊い女の誠を五百石で買ったと思えば廉《やす》いもので、ちっとも惜しいことはあるまいと、彼女は誇り顔《が》に言い放してお時を驚かした。
 綾衣はまたこうも言った。
 殿様がこうなったのは無論わたしの為であるが、わたしがこうなったのもまた殿様の為である。いわば両方が五分五分で秤《はかり》にかけたら重い軽いはないはずである。殿様に死ぬようなことがあればわたしも死ぬ。わたしに死ぬようなことがあれば殿様も死ぬ。それよりほかにはもう二人の行く道はないので、わたしの為に殿様が家を亡ぼしたとか、身を滅したとかいう風に思い違いをされては困る。わたしはこの末たといどうなろうとも、露ほども殿様を恨もうとは思わない。殿様もまたわたしに不足をいう道理がない。まあ、お前がたは黙って見物していてくれというのであった。
 そのことばの裏には或る怖ろしい覚悟が潜《ひそ》んでいるらしく思われたので、お時はさらに胸を冷やした。この上になおも無理なことを言い出したら、二人はいよいよ突き詰めてどんなことを仕でかすかも知れない。お時はそれを想像するさえ身の毛がよだった。もうこうなったら黙って成り行きを窺っているよりほかはないと、お時は腫れものに触《さわ》るようなおびえた心持ちで、遠くからそっと二人を眺めていた。
 しかし、どう考えても此のままで済もうとは思われなかった。やがて廓の颶風《はやて》がここへ舞い込んで来て、それからいろいろの渦を巻き起すことはありありと眼に見えているので、お時は毎朝の空を眺めて、きょうが其の破滅の悪日《あくび》ではないかと、いつも怖ろしい予覚におびやかされていた。
 きょうは盆の十三日で、亡き人の魂《たま》がこの世に迷って来るという日である。亡き魂と死と、こんなことを考えるとお時の心はいよいよ暗くなった。多年住み馴れているわが家も今夜に限ってなんだか薄ら寂しく、十吉が早く帰って来ればいいと待ち侘びしかった。
 堤下《どてした》の浄閑寺《じょうかんじ》で夕《くれ》の勤めの鉦《かね》が途切れとぎれに聞えた。
 さっき行水《ぎょうずい》を終った綾衣は、これも寂しい思いで鉦の音を聴いていた。微かにきざんでゆく鉦の音は胸に沁みるようであった。浄閑寺は廓の女の捨て場所であるということも、今更のように考えられた。運の悪い病気の女は日の目も見えないような部屋へ押し込まれて、碌々に薬も飲まされないで悶《もだ》え死にする。その哀れな亡骸《なきがら》は粗末な早桶を禿《かむろ》ひとりに送られて、浄閑寺の暗い墓穴に投げ込まれる。そうした悲惨な例は彼女も今までにしばしば見たり聞いたりしていた。それでも寿命がつきて死んだ者はまだいい。心中してわれから命を縮めた者は、同じ浄閑寺の土に埋められながらも、手足を縛って荒菰に巻かれて、犬猫にも劣った辱《はず》かしめを受けるのである。
 その人たちの迷った魂は今夜の魂迎えにどこへ招かれて行くであろう。自分のからだも、やがては浄閑寺へ送られて、土の下からあの鉦の音を聴くようになるのかと思うと、綾衣もなんだか気が沈んで、生きながら暗いところへ引き入れられるようにも感じた。おさない時に死に別れた父母のことも思い出された。十九の歳に芝のあきんどから身請けの相談があったが、抱え主は金で折り合わず、自分も気に入ら
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