て、もうひと足のところを汀《みぎわ》から危うく曳き戻した。お米は狂人のように身をもがいたが、男の力にはかなわないで再び縁さきまで泣きながらよろけて帰った。
奥にひそんでいる問題の人はこの争いをさっきから窺っていて、出ようか出まいかと躊躇していたが、もう堪まらなくなって襖《ふすま》をあけた。彼女はしずかに縁さきに出て、そこに泣き倒れているお米の肩をやさしくなでた。
「もし、お米さんとかいう子、お前も短気はやめなんし。わたしはこう見えてもほかに立派な男がおざんす。ここの家《うち》のお嫁かなんぞのように疑われては、十さんも迷惑、わたしも馬鹿らしゅうおす。もういい加減に泣くのを止めて、十さんと仲好くおしなんし」
まだ腑に落ちないような恨み顔をしているお米にむかって、綾衣はしみじみと言って聞かせた。相手の名はあらわには明かされないが、自分は廓にいる時から或る武家と言い交して、それがために駈落ちの日かげ者となってこの家に隠まわれている。十さんがそれを秘《かく》しているのは、つまりわたし達のためを思うからのことで、お前の疑うのは無理もないが、疑われた十さんは実に気の毒である。決して思い違いをしてはならないと言った。
お米も漸《ようや》く疑いがほぐれて来た。今までは垣覗きの遠目でよく判らなかったが、こうして顔と顔とを突き合わせて親しくその人をみあげると、その鈴を張ったような大きい眼、しっかりと結んでいる口もとに、犯し難い一種の威をもっているようにも思われて、お米はなんだかまぶしく感じられた。しかもその眼には偽らない誠の光りがひそんで、その口には優しいなさけがこもっていることも、彼女の心を惹き付けた。この人が自分を欺《だま》そうとはお米もさすがに思われなかった。彼女はおとなしく聴いていた。
綾衣は又こんなことを言った。
お前が十さんと約束のあることは、わたしもここの阿母《おっか》さんから聴いて知っている。こうして列べて見たところが丁度似合いの夫婦である。お前さん達は羨ましい。たとい一生を藁ぶき屋根の下に送っても、思い合った同士が仲よく添い遂げれば、世に生きている甲斐がある。いくら花魁の、太夫のと、うわべばかりに綺羅《きら》を飾っても、わたし達の身の果てはどう成り行くやら。仕合せに生まれた人たちと不仕合せに生まれた者とは、こうも人間の運が違うものか。返すがえすもお前さん達が羨ましくてならない。
こう言ううちにも綾衣はやるせないように胸を抱えて、しばたたく睫毛《まつげ》には白い露が忍んでいた。深いわけは知らないながらも、お米もなんだか引き入れられるように心さびしくなって、さっきの恨みとはまた違った悲しみに、あたらしい涙がおのずと湧き出るのを押さえることができなかった。
「実はそういう訳なんだから、このお人のことを決して誰にも言うんじゃないぜ」と、十吉は固く念を押した。お米は決して他言はしないといった。両親にさえも言わないと誓った。
世間をおそれる身が長く端居《はしい》はできないので、二人の仲直りを見とどけて綾衣は早々に奥へはいった。昼でも暗い納戸には湿《しめ》って黴《かび》臭い空気がみなぎっていた。人を慕ってすぐに襲って来る藪蚊の唸り声におびやかされて、綾衣はあわてて渋団扇《しぶうちわ》を手にとった。
間違って人に妬まれた我が身が、今はかえって人を妬ましいように思わなければならなかった。綾衣は実にお米と十吉とを妬ましいほどに羨ましく思った。彼女は時どきに団扇の手を休めて、二人のささやきに耳を引き立てた。
怨む、怒る、泣く、笑う、それが覗きからくりのように瞬くうちに変ってゆく若い同士の埒《らち》なさを、綾衣はただ馬鹿らしいとばかりは思えなかった。外記と馴染みそめたその当座は、自分たちの間にもそうしたおさない他愛ない痴話《ちわ》や口説《くぜつ》の繰り返されたことを思い出して、三年前の自分がそぞろに懐かしくなった。
「盂蘭盆が過ぎたら……」と、十吉の声がきこえた。
「家《うち》のおっかさんもそう言っていた」と、お米の声も低くきこえた。
盂蘭盆が過ぎたらいよいよ祝言をするというのではあるまいかと、綾衣は想像した。自分はその盂蘭盆まで生きていられる命だろうか。綾衣の肉は微かにおののいた。剣難の相があると言われたことも今更のように思い出された。
遠くで雷《らい》の音がひびいた。かみなり嫌いの綾衣はいよいよ神経が鋭くなった。
自分にも恋はある。あの子供らしい人たちがもっているのよりも、更に深い強い実《み》の入ったものをもっている。なんでよその恋が羨ましかろう。妬ましかろう。しかし自分たちは蜘蛛《くも》の巣にかかった蝶や蜻蛉《とんぼ》のように、苦しい、切ない、むごい、やがては命をとられそうな怖ろしいきずなに手足をくくられて悶《もが》いている
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