て正直に天機を洩らすのを憚《はばか》って、今度の病気だけのうらないを報告しておいた。それでも此のおそろしい秘密を自分ひとりの胸に抱えているのは何だか不安なので、ある時そっと新造の綾鶴にささやいた。それが又いつか綾衣の耳へもはいった。
「そんなら、わたしのも見てもらっておくんなんし」
お金は薄気味わるがって毎日ゆきしぶっているので、今度は綾衣がふだんから贔屓にしているお静《しず》という仲の町の芸妓が頼まれた。お静は田町へ行って綾衣の生まれ月日を言うと、占い者は又もひたいに皺を寄せて、この女には剣難の相《そう》があると言った。お静も真っ蒼になってふるえて帰った。綾衣にむかって何と答えてよかろうか、お静も一時はひどく困ったが、もう四十に近い女だけに彼女は考え直した。
花魁は夜毎に変った客に逢う身である。どんな酔狂人か気まぐれ者に出逢って、いつどんな災難を受けまいものでもない。当人が平生からその用心をしていれば、なんにつけても油断がなく、まさかの時にも危うい災難を逃がれることができるというもの。これはいっそ正直に打ち明けて、当人に注意を与えておいた方が却ってその身のためであろう。こう思って、お静は占い者の判断をいつわらず綾衣に報告した。
「ですから、気をおつけなせえましよ。そうして、神信心《かみしんじん》を怠っちゃあなりやせん」と、お静は親切に言った。
こんな話は当人ぎりで、誰の耳へもひびく筈ではないのであるが、お静が仲の町の茶屋へ遊びに行って、何かの話をしているうちに、かの占い者の噂が出た。そのときに自分が或る花魁に頼まれて行ったら、剣難の相があると言われてびっくりしたというようなことを、うっかりしゃべった。勿論、お静は綾衣の名を指しはしなかった。しかし前後の話の工合いから、それはどうも綾衣らしいという噂が立った。大菱屋の亭主も心配し出した。廓という世界に生きている人たちに対しては、うらないやお神籤《みくじ》が無限の権力をもっていた。
亭主は綾衣を呼んでそれとなく注意を与えた。綾衣は黙って聴いていた。
剣難といえば先ずひとに斬られるか、みずからそこなうかの二つである。呪われたる人の多い世ではあるが、遊女にはこの二つの危険が比較的に多かった。取り分けて遊女屋の主人に禍《わざわ》いするのは、廓《くるわ》に最も多い心中沙汰であった。恋にとけあった男と女とのたましいが、なにかの邪魔を突き破って無理に一つに寄り合おうとすれば、人間を離れたよその世界へ行くよりほかなかった。
法律の力で心中《しんじゅう》の名を相対死《あいたいじに》と呼び替えても、人間の情を焼き尽くさない限りは何の防ぎにもならなかった。吉原で心中を仕損じた者は、日本橋へ三日|晒《さら》した上で非人の手下《てか》へ引き渡すと定めても、それは何のおどしにもならなかった。心中のなきがらは赤裸にして手足を縛って、荒菰《あらごも》に巻いて浄閑寺《じょうかんじ》へ投げ込むという犬猫以上の怖ろしい仕置きを加えても、それはいわゆる「亡八《くるわ》の者」の残酷を証明するに過ぎなかった。情に生きて情に死ぬ男と女とは、切支丹の殉教者と同じ勇気と満足とをもって、この迫害の前に笑って立った。
遊女屋の座敷で心中した者があると、主人はその遊女一人を失ったばかりでない、検視の費用、その座敷の改築などに、おびただしい損害と迷惑とを引き受けなければならないので、彼らは心中を毒蛇よりも恐れた。大菱屋の亭主も自分の抱え遊女のうちから剣難の相があるという綾衣を見いだした時に、彼は未来の恐るべき禍いを想像するに堪えなかった。
綾衣には外記という男がある。それが普通一遍の客でないことは、大菱屋の二階はいうまでもなく廓じゅうにももう拡まっている。それがために綾衣の客は次第に薄くなってゆく。それだけでも亭主としては忌な顔をせずにはいられなかった。外記の小普請入りも亭主はもう知っていた。その矢先きへ、綾衣のひたいに剣難の極印《ごくいん》が打たれたと聞いては、彼がおびえたのも無理はなかった。
こうした場合の予防手段は、その客を「堰《せ》く」よりほかはなかった。しかし外記はかつて茶屋の支払いをとどこおらせたこともなかった。綾衣が身揚《みあが》りするという様子も見えなかった。大菱屋ではいかに未来の危険を恐れていても、差し当っては外記をことわる口実を見いだすのに苦しんで、単に注意人物として遠巻きに警戒しているに過ぎなかった。
その注意人物は病気で十日ほども遠退いたが、その後は相変らず足近くかよいつめて、亭主のひたいにいよいよ深い皺を織り込ませた。二月の初午《はつうま》は雨にさびれて、廓の梅も雪の消えるように散ったかと思う間に、見返り柳はいつかやわらかい芽を吹いて、春のうららかな影はたわわ[#「たわわ」に傍点]になびく
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