。お屋敷に何か悪いことでもあったのかね」
「むむ。だが、滅多《めった》にひとに言うのじゃないぞ」と、お時は小声に力をこめて言った。
 話さないさきから厳重に口止めをされて、十吉も変な顔をして黙っていた。
「番町の殿様、飛んでもない道楽者におなりなすったとよ。情けない」
 お時はほろり[#「ほろり」に傍点]とした。十吉はまた箸をやめて、炉の火にひかる母の眼の白い雫《しずく》をうっかりと見つめていた。
 この母子《おやこ》がお屋敷というのは、麹町《こうじまち》番町《ばんちょう》の藤枝外記《ふじえだげき》の屋敷であった。藤枝の家は五百石の旗本で、先代の外記は御書院の番頭《ばんがしら》を勤めていた。当代の外記が生まれた時に、縁があってこのお時が乳母に抱えられた。お時はそのときにお光という娘をもっていたが、生まれて一年ばかりで死んでしまったので、彼女《かれ》は乳の出るのを幸いに藤枝家へ奉公することになった。それはお時が二十二の夏であった。
 殿様も奥様も情けぶかい人であった。いい主人を取り当てたお時は奉公大事に勤め通して、若様が五つのお祝いが済んだとき無事にお暇《いとま》が出た。それから三年目に奥様は更にお縫《ぬい》という嬢様を生んだが、その頃にはお時も丁度かの十吉を腹に宿していたので、乳母はほかの女をえらばれた。しかし御嫡子《ごちゃくし》の若様にお乳《ちち》をあげたという深い縁故をもっている彼女は、その後も屋敷へお出入りを許されて御主人からは眼をかけられていた。正直いちずなお時はよくよくこれを有難いことに心得て、年頭や盂蘭盆《うらぼん》には毎年かかさずお礼を申上げに出た。
 そのうちに年が経って、殿様も奥様もお時に泣く泣く送られて、いずれも赤坂の菩提寺《ぼだいじ》へ葬られてしまった。家督《かとく》を嗣いだ嫡子の外記は十六歳で番入りをした。勿体《もったい》ないが我が子のようにも思っている若様、どうぞ末長く御出世遊ばすようにと、お時は浅草の観音さまへ願《がん》をかけて、月の朔日《ついたち》と十五日には必ず参詣を怠らなかった。
「おれが家督をとるようになったら、きっとお前の世話をしてやるぞ」
 子供の時からそう言っていた外記は、約束を忘れるような男ではなかった。彼が家督を相続した頃には、運のわるいお時はもう嬬婦《ごけ》になってしまって、まだ八つか九つの十吉を抱えて身の振り方にも迷
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