ん》の角助が仲の町の駿河屋へ迎いに来た。ゆうべあいにく市ヶ谷の叔父さまがお屋敷へお越しなされて、また留守かときつい御立腹であった。お嬢さまも御用人もいろいろに取りつくろって其の場はどうにか納まったものの、明日もまだ帰らぬようであったらおれにもちっと考えがある、必ずおれの屋敷まで知らせに参れと、叔父さまがくれぐれも念を押して帰られた。就いてはきょうもお留守とあっては、どのような面倒が出来《しゅったい》いたさぬとも限られませねば、是非とも一度お帰り下さるようにと、お縫と三左衛門との口上を一緒に列べ立てた。
「叔父にも困ったものだ」
外記はさも煩《うる》さそうに顔をしかめたが、ともかくもひとまず茶屋へ帰って角助に逢った。角助は渡り中間《ちゅうげん》で、道楽の味もひと通りは知っている男であった。主人のお伴をして廓へ入り込んで、自分は羅生門河岸《らしょうもんがし》で遊んで帰るくらいのことは、かねて心得ている男であった。その方からいうと、彼はむしろ外記の味方であったが、きょうばかりはお帰りになる方がよろしゅうござりますと、彼もしきりに勧めた。お嬢さまはゆうべお寝《やす》みにならないほど御心配の御様子でござりましたとも言った。
「お縫までが……。揃いもそろって困ったやつらだ。よし、よし、きょうは帰る」と、外記は叱るように言った。
腹立ちまぎれに支度さして外記はすぐに駕籠に乗った。寝足らない眼に沁みる朝の空気は無数の針を含んでいるようで、店の前の打ち水も白い氷になっていた。
「お寒うござりましょう。お羽織の上にこれをお召しなされまし」と、女房は気を利かして、綿の厚い貸羽織を肩からふわりと着せかけてくれたが、焦《じ》れて、焦れ切っている外記には容易に手が袖へ通らないので、彼はますます焦れた。曲がったうしろ襟を直してくれようとする女房の手を払いのけるようにして、彼は思い切りよく駕籠にひらりと乗り移った。
「気をつけてお出でなんし」
綾衣が駕籠の垂簾《たれ》を覗こうとする時に、白粉《おしろい》のはげた彼女の襟もとに鳥の胸毛のような軽い雪がふわりふわりと落ちて来た。
けさのこうした別れのありさまを思いうかべながら、綾衣は十畳の座敷につづいた八畳の居間に唯ぼんやりと夢みるように坐っていた。大籬《おおまがき》に育てられた彼女は、浮世絵に描かれた遊女のようにしだら[#「しだら」に傍点]
前へ
次へ
全50ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング