《かちどき》をあげたが、理を非にまげられた相手の女中は面白くなかった。殊に綾衣が駿河屋の肩を持っているらしく見えたので、彼女はいよいよ不平であった。結局今夜のその客はほかの花魁へ振り替えて、綾衣のところへは送らないということで落着《らくぢゃく》した。たとい初会の客にせよ、こうしたごたごた[#「ごたごた」に傍点]で、綾衣は今夜一人の客を失ってしまった。
 外記が茶屋の二階で苛々している間に、女房や女中はこれだけの働きをしていたのであったが、それは茶屋が当然の勤めと心得て、別に手柄らしく吹聴《ふいちょう》しようとも思わなかった。かえってそんな面倒は客の耳に入れない方がいい位に考えていたので、女房はいい加減に外記の手前を取りつくろって置いたのであった。
 なんにも知らない外記は唯うなずいていると、女中がつづいてあがって来た。
「綾衣さんの花魁がもう見えます」
「そうかえ」
 女房は二階の障子をあけて、待ちかねたように表をみおろした。外記もうかうか[#「うかうか」に傍点]と起って覗いた。外にも風がよほど強くなったと見えて、茶屋の軒行燈の灯は一度に驚いてゆらめいていた。浮かれながらも寒そうに固まって歩いている人たちの裳《すそ》に這いまつわって、砂の烟《けぶ》りが小さい渦のようにころげてゆくのが夜目にもほの白く見えた。春の夜の寒さを呼び出すような按摩の笛が、ふるえた余音《よいん》を長くひいて横町の方から遠くきこえた。
 江戸|町《ちょう》の角から箱提灯のかげが浮いて出た。下がり藤の紋があざやかに見えた。戦場の勇士が目ざす敵の旗じるしを望んだ時のように、外記は一種の緊張した気分になって、ひとみを据えてきっと見おろしていた。提灯が次第にここへ近づくと、女房も女中もあわてて階子を駈けおりて行った。
「さあ、花魁、おあがりなされまし」
 口々に迎えられて、若い者のさげた提灯の灯は駿河屋の前にとまった。振袖新造《ふりそでしんぞう》の綾鶴と、番頭新造の綾浪と、満野《みつの》という七つの禿《かむろ》とに囲まれながら、綾衣は重い下駄を軽くひいて、店の縁さきに腰をおろした。
「皆さん、さっきはお世話でありんした」
 立兵庫《たてひょうご》に結った頭を少しゆるがせて、型ばかり会釈した彼女は鷹揚ににっこり[#「にっこり」に傍点]笑った。綾衣は俗にいう若衆顔のたぐいで、長い眉の男らしく力んだ、眼の大き
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