しいと思ったので、下田は押返して言った。
「御不快中、はなはだお気の毒でござるが、是非ともすぐにお目にかからねばならぬ急用が出来《しゅったい》いたしたれば、ちょっとお逢い申したい。」
それでどうするかと思って待ち構えていると、本人の島川は自分の部屋から出て来た。なるほど不快のていで顔や形もひどく窶《やつ》れていたが、なにしろ別条なく生きているので、下田もまず安心した。なんの御用と不思議そうな顔をしている島川に対しては、いい加減の返事をして置いて、下田は早々に表に出てゆくと、かの白い女のすがたは消えてしまったというのである。中原をはじめ、他の人々も厳重に見張っていたのである、それがおのずと煙りのように消え失せてしまったというので、下田も又おどろいた。
「島川どのは確かに無事。してみると、それはやはり妖怪であったに相違ない。かようなことは決して口外しては相成りませぬぞ。」
初めは妖怪であると思った女が、中ごろには人間になって、さらにまた妖怪になったので、人々も夢のような心持であった。しかしその姿が消えるのを目前《もくぜん》に見たのであるから、誰もそれを争う余地はなかった。百物語のおかげで、世には妖怪のあることが確かめられたのであった。
その本人の島川は一旦|本復《ほんぷく》して、相変らず奥に勤めていたが、それからふた月ほどの後に再び不快と言い立てて引籠っているうちに、ある夜自分の部屋で首をくくって死んだ。前々からの不快というのも、なにか人を怨むすじがあった為であると伝えられた。
してみると、さきの夜の白い女は単に一種の妖怪に過ぎないのか。あるいはその当時から島川はすでに縊死の覚悟をしていたので、その生霊《いきりょう》が一種のまぼろしとなって現われたのか。それはいつまでも解かれない謎であると、中原武太夫が老後に人に語った。これも前の話の離魂病のたぐいかも知れない。
底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房
1999(平成11)年7月2日第1刷
入力:網迫、土屋隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月26日作成
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