かの中原武太夫が第八十三番の座に直ったのは、その夜ももう八つ(午前二時)に近い頃であった。中原は今度で三番目であるから、持ちあわせの怪談も種切れになってしまって、ある山寺の尼僧と小姓とが密通して、ふたりともに鬼になったとかいう紋切形《もんきりがた》の怪談を短く話して、奥の行燈の火を消しに行った。
前にもいう通り、行燈のある書院までゆき着くには、暗い広い座敷を五間通りぬけなければならないのであるが、中原は最初から二度も通っているので、暗いなかでも大抵の見当は付いていた。彼は平気で座を起って、次の間の襖をあけた。暗い座敷を次から次へと真っ直ぐに通って、行燈の据えてある書院にゆき着いたときに、ふと見かえると、今通って来たうしろの座敷の右の壁に何やら白いものが懸かっているようにぼんやりと見えた。引っ返してよく見ると、ひとりの白い女が首でも縊《くく》ったように天井から垂れ下がっているのであった。
「なるほど、昔から言い伝えることに嘘はない。これこそ化け物というのであろう。」と中原は思った。
しかし彼は気丈の男であるので、そのままにして次の間へはいって、例のごとくに燈心をひとすじ消した。それから鏡をとって透かしてみたが、鏡のおもてには別に怪しい影も映らなかった。帰るときに再び見かえると、壁のきわにはやはり白いものの影がみえた。
中原は無事にもとの席へ戻ったが、自分の見たことを誰にも言わなかった。第八十四番には筧《かけい》甚五右衛門というのが起って行った。つづいて順々に席を起ったが、どの人もかの怪しいものについて一言もいわないので、中原は内心不思議に思った。さてはかの妖怪は自分ひとりの眼にみえたのか、それとも他の人々も自分とおなじように黙っているのかと思案しているうちに、百番の物語はとどこおりなく終った。百すじの燈心はみな消されて、その座敷も真の闇となった。
中原は試みに一座のものに訊いた。
「これで百物語も済んだのであるが、おのおののうちに誰も不思議をみた者はござらぬか。」
人々は息をのんで黙っていると、その中でかの筧甚五右衛門がひと膝すすみ出て答えた。
「実は人々をおどろかすも如何《いかが》と存じて、先刻から差控えておりましたが、拙者は八十四番目のときに怪しいものを見ました。」
ひとりがこう言って口を切ると、実は自分も見たという者が続々あらわれた。だんだん詮議する
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