冷たい潮風が吹いて来ると、つづいて雨の来るのが習い。湿《ぬ》れぬうちに戻りましょうか。
呉羽 苫屋《とまや》に雨の漏らぬように、軒のやぶれもつくろうて置かねばなりますまい。
綾の局 召仕いもなき佗び住居は、なにやらかやら心せわしいことでござるのう。
(二人は籠をたずさえてとぼとぼとあゆみ去る。浜のわらべ甲乙丙の三人いず。乙は赤き蟹を糸に縛りて持ったり。)
童乙 どうじゃ。平家蟹《へいけがに》はまだいるかの。
童甲 あいにくに夕潮が一杯じゃ。これでは蟹も上がりそうもないぞ。
童丙 では、あすの朝、潮の干《ひ》た頃に捕りに来ようかのう。
(弥平兵衛宗清、四十余歳、今は仏門に入りて雨月という。旅姿、笠と杖とを持ちていず。)
雨月 これ、これ、平家蟹とは……。どのような蟹じゃな。
童乙 これじゃ。見さっしゃれ。
(蟹を見せる。雨月はじっと視る。)
雨月 この蟹をなぜ平家と云うのか。
童甲 この壇の浦で平家が亡びてから、ついぞ見たことのない、こんな蟹が沢山に寄って来ましたのじゃ。
童乙 蟹の甲には人の顔がみえています。
童丙 これ、このように、おこった顔をしています。
(指さし示せば、雨月はつくづく視て、思わずぞっとする。)
雨月 おお、なるほど蟹の甲にはありありと人の顔……。しかも凄まじい憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》……。平家がここでほろびた後に、このような不思議の蟹が……。
三人 そうじゃ、そうじゃ。
雨月 白きは源氏[#「源氏」は底本では「源民」]……赤きは平家の旗の色……。あかき甲にいかれる顔は……。平家の方々のたましいが、蟹に宿って迷いいずるか。
童甲 じゃによって、平家蟹といいますのじゃ。
(雨月は黙して蟹をながめている。)
雨月 これ、子供よ。浜育ちとはいいながら、無益《むやく》の殺生《せっしょう》はせぬものじゃ。この蟹を海へ放してやれ。その代りにわしがよいものをやりましょうぞ。
童乙 よい物をくださるなら、すぐに放してやりましょう。
雨月 おお、聞き分けのよい児じゃ。その代りには何がよかろうぞ。おお、これがよい。(腰をさぐりて糒《ほしい》を入れたる麻の袋をとり出す。)さあ、これをやる程に、蟹は早う放してやったがよい。
(童は袋より糒をすくい出して見る。)
童乙 これはなんでござるな。
雨月 それは糒というもので、水か湯にひたしてたべるのじゃ。
童乙 あり
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