、特に進んでそれを詮索しようとする者もなかったが、そのなかで猪上なにがしという若侍が忌々《いまいま》しそうに舌打ちした。
「こうして毎晩おなじようなことをしているのは甚だ難儀だ。おそらく狐か狸の仕業であろうから、今夜は嚇しに鉄砲を撃ってやろうではないか。」
そのことばが終るか終らないうちに、かれはあっ[#「あっ」に傍点]といって俯伏した。一つの石が彼の額を打ったのである。しかも今度の石にかぎって、それが大きい切り石であったので、猪上の右の眉の上からは生血《なまち》がおびただしく流れ出した。人々は息をのんで眼を見あわせた。
こうなると、天井の裏に何者かがひそんでいるらしく思われるので、一座は総立ちになって天井の板をめくり始めた。父も一緒に手伝った。しかもそれはやはり不成功に終った。傷つけられた猪上はその夜から発熱して、二十日ほども寝込んだということであった。
父はその翌晩も行ってみたいと思ったのであるが、藩士以外の者をたびたび入れることは困る、万一それが重役にでも知れたときには我々が迷惑するからと断わられたので、父はその一夜ぎりで怪異を見るの機会を失ってしまった。しかし小石の落ちたのは事実である。猪上が額を破られたのも事実である。それがどういうわけであるかは判らなかった。
聞くところによると、石の落ちるのはその後ひと月あまりも続いたが、七月の末頃から忘れたように止んでしまったということであった。
これは怪談というべきものでは無いかも知れない。
文久元年のことである。わたしの父は富津《ふっつ》の台場の固めを申し付けられて出張した。末の弟、すなわち私の叔父も十九歳で一緒に行った。そのころ富津付近は竹藪や田畑ばかりであったが、それでも木更津街道にむかったところには農家や商家が断続につらなっていた。殊に台場が出来てから、そのあたりもだんだんに開けてきて、いつの間にか小料理屋なども出来た。
九月はじめの午後に、父と叔父は吉田という同役の若侍と連れ立って、ある小料理屋へ行った。父は下戸であるが叔父と吉田は少し飲むので、しばらくそこで飲んで食って、夕七つ(午後四時)を過ぎた頃に帰った。その帰り路のことである。長い田圃路にさしかかると、叔父はとかくによろよろして、ややもすると田の中へ踏み込もうとする。おそらく酔っているのであろうと父は思った。ええ、意気地のない奴だ、しっかりしろと小言を言いながら、その手を把るようにして歩いてゆくと、叔父はしばらく真っ直ぐにあるくかと思うと、又よろよろとよろめいて田の中へ踏み込もうとする。それが幾たびか繰り返されるので、父もすこし不思議に思った。
「お前は狐にでも化かされているんじゃないか。」
言う時に、連れの吉田が叫んだ。
「あ、いる、いる。あすこにいる。」
指さす方面を見かえると、右側の田を隔てて小さい岡がある。その岡の下に一匹の狐の姿が見いだされた。狐は右の前足をあげて、あたかも招くような姿勢をしている。注意して窺うと、その狐が招くたびに、叔父はその方へよろけて行くらしい。
「畜生。ほんとうに化かしたな。」と、父は言った。
「おのれ、怪しからん奴だ。」
吉田はいきなりに刀をぬいて、狐の方にむかって高く振りひらめかすと、狐はたちまち逃げてしまった。それから後は叔父は真っ直ぐにあるき出した。三人は無事に自分たちの詰所へ帰った。あとで聞くと、叔父は夢のような心持でなんにも知らなかったということであった。これは動物電気で説明の出来ることではあるが、いわゆる「狐に化かされた」というのを眼のあたりに見たのはこれが始めであると、父は語った。
その翌々年の文久三年の七月、夜の四つ頃(午後十時)にわたしの父が高輪の海ばたを通った。父は品川から芝の方面へむかって来たのである。月のない暗い夜であった。田町の方から一つの小さい盆燈籠が宙に迷うように近づいて来た。最初は別になんとも思わなかったのであるが、いよいよ近づいて双方が摺れ違ったときに、父は思わずぎょっとした。
ひとりの女が草履をはいて、おさない児を背負っている。盆燈籠はその児の手に持っているのである。それは別に仔細はない。ただ不思議なのは、その女の顔であった。彼女は眼も鼻もない、俗にいうのっぺらぼうであったので、父は刀の柄に手をかけた。しかし、又考えた。広い世間には何かの病気か又は大火傷《おおやけど》のようなことで、眼も鼻もわからないような不思議な顔になったものが無いとは限らない。迂闊なことをしては飛んだ間違いになると、少しく躊躇しているうちに、女は見返りもしないで行き過ぎた。暗いなかに草履の音ばかりがぴたぴたと遠くきこえて、盆燈籠の火が小さく揺れて行った。
父はそのままにして帰った。
あとで聞くと、父とほとんど同じ時刻に、札の辻のそばで怪し
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