っかりしろと小言を言いながら、その手を把るようにして歩いてゆくと、叔父はしばらく真っ直ぐにあるくかと思うと、又よろよろとよろめいて田の中へ踏み込もうとする。それが幾たびか繰り返されるので、父もすこし不思議に思った。
「お前は狐にでも化かされているんじゃないか。」
 言う時に、連れの吉田が叫んだ。
「あ、いる、いる。あすこにいる。」
 指さす方面を見かえると、右側の田を隔てて小さい岡がある。その岡の下に一匹の狐の姿が見いだされた。狐は右の前足をあげて、あたかも招くような姿勢をしている。注意して窺うと、その狐が招くたびに、叔父はその方へよろけて行くらしい。
「畜生。ほんとうに化かしたな。」と、父は言った。
「おのれ、怪しからん奴だ。」
 吉田はいきなりに刀をぬいて、狐の方にむかって高く振りひらめかすと、狐はたちまち逃げてしまった。それから後は叔父は真っ直ぐにあるき出した。三人は無事に自分たちの詰所へ帰った。あとで聞くと、叔父は夢のような心持でなんにも知らなかったということであった。これは動物電気で説明の出来ることではあるが、いわゆる「狐に化かされた」というのを眼のあたりに見たのはこれが始めであると、父は語った。

 その翌々年の文久三年の七月、夜の四つ頃(午後十時)にわたしの父が高輪の海ばたを通った。父は品川から芝の方面へむかって来たのである。月のない暗い夜であった。田町の方から一つの小さい盆燈籠が宙に迷うように近づいて来た。最初は別になんとも思わなかったのであるが、いよいよ近づいて双方が摺れ違ったときに、父は思わずぎょっとした。
 ひとりの女が草履をはいて、おさない児を背負っている。盆燈籠はその児の手に持っているのである。それは別に仔細はない。ただ不思議なのは、その女の顔であった。彼女は眼も鼻もない、俗にいうのっぺらぼうであったので、父は刀の柄に手をかけた。しかし、又考えた。広い世間には何かの病気か又は大火傷《おおやけど》のようなことで、眼も鼻もわからないような不思議な顔になったものが無いとは限らない。迂闊なことをしては飛んだ間違いになると、少しく躊躇しているうちに、女は見返りもしないで行き過ぎた。暗いなかに草履の音ばかりがぴたぴたと遠くきこえて、盆燈籠の火が小さく揺れて行った。
 父はそのままにして帰った。
 あとで聞くと、父とほとんど同じ時刻に、札の辻のそばで怪し
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