災難に出逢いまして……。腹が立つやら悲しいやら、なんともお話になりませんような訳で、世間に対しても外聞《がいぶん》が悪うござります。」
「その鉄作はどうしている。」
「この頃はからだもすっかり癒りまして、自分でもお福を見殺しにして逃げたのを、なんだか気が咎めるのでございましょう。時どきに訪《たず》ねて来ていろいろの世話をしてくれますが、あんな男に相変らず出入りをされましては、なおなお世間に外聞が悪うござりますから、なるべく顔を見せてくれるなといって断っております。」
言いかけて、おもよは気がついたように暗い表に眼をやった。
「おや、雨が降ってまいりました。」
茂左衛門も気がついて表を覗くと、闇のなかに雨の音がまばらに聞えた。
「とうとう降って来たか。」
彼は起《た》って軒下へ出ると、おもよも続いて出て来た。
「皆さまもさぞお困りでござりましょう。どうもこの頃は雨が多くて困ります。」
家の前にも横手にも空地《あきち》があって、横手には小さい納屋《なや》がある。それにふと眼をつけたらしいおもよは急に声をかけた。
「そこにいるのはおらちではないか。さっきから姿が見えねえから、奥で寝ているのかと思っていたに……。この夜更けにそんな所で何をしているのだ。」
叱られて納屋の蔭からその小さい姿をあらわしたのは、おもよが改めて紹介するまでもなく、ことし十六になるという孫娘のおらちであることを、茂左衛門はすぐに覚った。おらちは物に怖《お》じるような落ちつかない態度で、二人の前に出て来た。
「お城のお侍さまに御挨拶をしないか。」と、おもよはまた言った。
おらちは無言で茂左衛門に会釈《えしゃく》して、あとを見かえりながら内にはいると、おもよは独り言のように、あいつ何をしていたかと呟きながら、入れ代って納屋の方へ覗きに行ったかと思う間もなく、老女は忽ちに声をとがらせた。
「そこにいるのは誰だよ。」
それに驚かされて、茂左衛門も覗いてみると、納屋の蔭にまだひとつの黒い影が忍んでいるらしかった。おもよは咎めるようにまた呶鳴った。
「誰だよ。鉄作ではないか。今ごろ何しに来た。お福の幽霊に逢いたいのか。」
相手はそれにも答えないで、暗い雨のなかを抜け出してゆく足音ばかりが聞えた。そうして、それが家の前からまだ四、五間も行き過ぎまいかと思われる時に、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]という悲鳴がまた突然にきこえた。つづいて嘶くのか、吠えるのか、唸るのか、得体《えたい》のわからない一種の叫びが闇をゆするように高くひびいた。
「あ、あれでござります。」と、おもよは俄かに悸《おび》えるようにささやいた。
もう問答の暇《いとま》もない。茂左衛門はおどるように表へ飛び出すと、雨はだんだんに強くなっていた。引っかえして火縄をつける間も惜しいので、彼はその叫びのきこえた方角へまっしぐらに駈けて行くと、草鞋《わらじ》は雨にすべって路ばたの菜畑に転げ込んだ。一旦は転んでまた起きかえる時、彼は何物にか突き当ったのである。それが大きい獣であるらしいことを覚ったが、あまりに距離が近過ぎるので、茂左衛門は刀を抜くすべがなかった。
彼は必死の覚悟でその怪物に組み付くと、相手は強い力で振り飛ばした。振り飛ばされて茂左衛門はまた倒れたが、すぐに刎《は》ね起きて刀をぬいた。そうして、暗いなかを手あたり次第に斬り廻ったが、刃《やいば》に触れるものは菜の葉や菜の花ばかりで、一向にそれらしい手ごたえはなかった。耳を澄ましてその足音を聞き定めようとしたが、あいにくに降りしきる雨の音に妨げられて、それも判らなかった。
「残念だな。」
がっかりして突っ立っているところへ三、四人が駈けつけて来た。それは第三の組の倉橋伝十郎と粕屋甚七と、案内の者どもであった。かれらはあの怪しい叫びを聞き付けて駈け集まったのであるが、もうおそかった。伝十郎も口惜《くや》しがったが、取り分けて甚七は残念がった。彼は宵の恥辱をすすごうとして、火縄をむやみに振って駈けまわったが、結局くたびれ損《ぞん》に終った。
第三の組ばかりでなく、第一第二の組もおいおいに駈け付けた。そうして、たいまつを照らしてそこらを探し廻った。それもやはり不成功に終ったので、よんどころなく本陣にしている次郎兵衛後家の家へいったん引揚げることになった。ここで初めて発見されたのは、茂左衛門の左の手に幾筋の長い毛を掴《つか》んでいたことであった。
いつどうしてこんなものを掴んだのか、自分にも確かな記憶はない。だんだん考えてみると、暗いなかを無暗《むやみ》に斬っているあいだに、何物かを掴んだことがあるようにも思われる。あるいはその時、片手は獣の毛を掴んで、片手でそれを切ったのかも知れない。あるいは確かにそれを切るという気でもなく、ただ無暗に振りまわ
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