めて、茂左衛門の眼にも馬であるらしく見えた。馬にしても、熊にしても、それが普通の物よりも遥かに大きく、そうしてすこぶる長い毛に掩《おお》われているらしいということは、どの人の見たところも皆一致していた。
この報告を聞いて、城中の医師北畠式部はいった。
「それは海馬《かいば》などと言うべきものではあるまい。海馬は普通にあしか[#「あしか」に傍点]と唱えて、その四足は水掻きになっているのであるから、むやみに陸上を徘徊する筈がない。おそらくそれは水から出て来たものではなく、山から下って来た熊か野馬のたぐいで、水を飲むか、魚を捕るかのために、水辺または水中をさまよっていたのであろう。」
それを確かめる唯一の証拠品は、茂左衛門の手に残ったひと掴みの毛であるが、それが果して何物であるかは北畠式部にもさすがに鑑定が出来なかった。何分にも馬であるという説が多いので、海馬か、野馬か、しょせんは一種の妖馬であるというのほかはなかった。
妖馬は溺れて死んだのか、あるいは鉄砲に傷ついたのか、あるいは今夜の攻撃に怖れて遠く立去ったのか、いずれにしてもその後はこの村に怪しい叫びを聞かせなくなった。名島の城下の夜は元の静けさにかえって、家々の飼馬はおだやかに眠った。――神原茂左衛門基治の記録はこれで終っている。
M君は最後に付け加えた。
僕は多々良という川も知らず、名島付近の地理にも詳しくないが、地図によると海に近いところである。現にその記録にも妖馬は海に近いところで沈んでしまったと書いてあって、その当時も多々良川が海につづいていたことは容易に想像される。して見れば北畠式部が説明するまでもなく、ここらの住民は海馬がどんな物であるかをかねて知っていそうな筈であるのに、それが陸にあがって世間を騒がしたなどというのは、少し受取りにくいようにも思われるが、ここではまずその記録を信ずるのほかはない。かの妖馬の毛なるものは、近年二、三の専門家の鑑定を求めたが、どうも確かなことが判らない。しかしそれは陸上に棲息していたものらしく、あるいは今日《こんにち》すでに絶滅している一種の野獣が、どこかの山奥からでも現れて来たのではないかというのである。
それからずっと後の天明《てんめい》年間に書かれた橘|南渓《なんけい》の「西遊記」にも、九州の深山には山童《やまわろ》というものが棲んでいるの、山女《やまお
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