方に去る。)
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お菊 (苛々《いら/\》して。)えゝ、なんとしたものであらう。わたしといふ者を打捨てて、ほかの奥様をお貰ひ遊ばすやうな、そんな嘘つきの殿様でないことは、不断からよく知つてゐるものの、小石川の伯母様の御媒介《おなかうど》で、飯田町の大久保様とやらから奥様をお迎へなさる、内相談があるとやら。(また考へる。)いや、それはほんの人の噂ぢや。おゝ、さうぢや。現にこのあひだも殿様にそれを云うて念を押したら、えゝ、馬鹿め、おれを疑ふにも程がある。まあ、黙つて長い目で見てをれ、とたゞ一口に叱りなされた。叱られて嬉しかつたも束《つか》の間《ま》で、又なんとやら疑ひの芽が噴いてくる……。えゝ、もうどうともなれ。
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唄※[#歌記号、1−3−28]物に狂ふか青柳も、風のまに/\もつれて解けて、糸のみだれの果しなき。
(お菊は少しく悶《じ》れたる気味にて皿を片づけてゐたりしが、また手をやすめて考へる。)
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お菊 よもやとは思ふものの、万一ほんたうに奥様が来るやうであつたら……。えゝ、気の揉めることぢや。たとへ口ではなんと仰せられても、男はいつはりの多いものとやら。なんとかして殿様の、心の奥の奥を確かに見きはめる工夫はないものか。(思案しながら我手に持つたる皿にふと眼をつける。)お家に取つては大切な宝といふこの皿を、もしも妾《わたし》が打砕いたら……。(又かんがへる。)とは云ふものの、大切なお道具を、むざ/\毀《こは》すは勿体ない。
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唄※[#歌記号、1−3−28]雲さへ暗き雨催ひ、故郷の空はいづこぞと、ゆくてに迷ふ雁《かり》の声。
(お菊は皿をながめて、毀さうか毀すまいかと迷つてゐる。)
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お菊 えゝ、もう寧《いつ》そのこと。
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唄※[#歌記号、1−3−28]しづ心なく散りそめて、土に帰るか花の行末。
(この以前よりお仙は下手《しもて》より出で来りてうかゞひゐる。お菊は思ひ切つて一枚の皿を取り、縁の柱に打ち付けて割る。この途端に、下の方にて「お帰り」と大きく呼ぶ声。お仙は早々に下の方へ立去る。上の方より庭
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