が悪いのだ。幸之助も悪いが、お北も悪い。つまりは両成敗《りょうせいばい》で型を付けるよりほかないのだ。おれはもう覚悟している。おまえ達もそのつもりでいろ」
 お由は無言で眼を拭いた。長三郎も黙って聴いていると、父はやがて伜の方へ向き直った。
「今も云い聞かせた通りの次第だが、おれは勤めのある身の上だ。御用をよそにして娘のゆくえを尋ね歩いてはいられない。おまえは部屋住みだ。これから江戸じゅうを毎日探し歩いて、姉の隠れ場所を見つけて来い。途中で出逢ったらば、無理に連れて帰って来い」
 いかにこの時代でも、十五歳の小伜に対してこんな役目を云いつけるのは、少しく無理なようにも思われたが、これは迂闊《うかつ》に他人にも頼まれない用向きであるから、長八もわが子に頼むよりほかはなかったのである。その事情を察しているので、長三郎も断わることは出来なかった。
「承知しました」
「けれども、おまえ……」と、お由は我が子に注意するように云った。「家《うち》の姉さんの家出したのはほかに仔細のあることで、おとなりの幸之助さんとは係り合いが無いのかも知れないからね。そのつもりで、むやみに手暴《てあら》な事をしちゃあいけませんよ」
「いや、それは未練だ」と、長八は叱るように云った。「お北が幸之助と裏口で立ち話をしているのを、妹も二、三度見たことがあると云うのだ。お秋も今まで隠していたが、これも二人の立ち話を時々に見たと云う。してみれば、証拠は十分だ。長三郎、決して容赦《ようしゃ》するなよ。おまえは年の割合には剣術も上達している。万一、幸之助が邪魔をして、刀でも抜いて嚇《おど》かすようなことがあったらば、お前も抜いて斬ってしまえ」
 内心はどうだか知らないが、父としては斯う命令するよりほかは無かったのであろう。
 長八は更に我が子にむかって、探索《たんさく》の心あたり四、五カ所を云い聞かせると、長三郎は委細《いさい》こころえて、父の前を退いた。そうして、直ぐに表へ出る支度をしていると、母は幾らかの小遣い銭を呉れて、その出ぎわに又ささやいた。
「お父さまはああ云っているけれども、なにしろ総領むすめなんだからね。おまえに取っても姉さんなのだから……」
 長三郎は無言でうなずいて出たが、なにぶんにも困った役目を云い付かったと、彼は悲しく思った。
 姉を庇《かば》う母の心はよく判っているが、この場合、一刻も早く姉をさがし出して、なんとかその処分をしなければ、父の身分にも関《かか》わる、家名にも関わる。たとい母には恨まれても、姉を見逃がすようなことは出来ない。もし幸之助が一緒にいて、なにかの邪魔をするときは、父の指図通りにしなければならない。白い蝶の探索については、彼も一種の興味を持っていたが、今度の探索はなんの興味どころか、単に辛《つら》い、苦しい役目というに過ぎなかった。
 それでも彼は奮発して出た。勿論、どこという確かな目当てもないのであるが、さしあたりは父に教えられた心あたりの四、五カ所をたずねることにした。それは母方の縁者や、多年出入りをしている商人《あきんど》などの家で、あるいは青山、あるいは高輪《たかなわ》、更に本所深川などであるから、いかに若い元気で無茶苦茶に駈けまわっても、それからそれへと尋ね歩くのは容易ではなかった。
 しかも行く先きざきで何の手がかりをも探り出し得ないので、彼はがっかりしてしまった。姉はどこへも立ち廻った形跡がないのである。
 疲れた上に、日も暮れかかったので、長三郎はきょうの探索を本所で打ち切ることにした。本所の家は母方の叔母にあたるので、そこで夜食の馳走になって、六ツ半(午後七時)を過ぎた頃に出て来たが、本所の奥から音羽まで登るには可なりの時間を費した。江戸市中の地理に明るくない彼は、正直に両国橋を渡って、神田川に沿って飯田橋に出て、更に江戸川の堤《どて》に沿うて大曲《おおまがり》から江戸川橋にさしかかったのは、もう五ツ(午後八時)を過ぎていた。
 雨催いの空は低く垂れて、生《なま》あたたかい風が吹く。本所で借りて来た提灯をたよりに、暗い夜道を足早にたどって、今や橋の中ほどまで渡り越えたとき、長三郎は俄かに立ち停まった。自分のゆく先きに白い蝶が飛んでいるように見えたからである。はっ[#「はっ」に傍点]と思って再び見定めようとすると、その白い影はもう消え失せていた。
「心の迷いか」と、長三郎は独りで笑った。
 蝶の影は彼の迷いであったかも知れないが、さらに一つの黒い影が彼の眼のさきにあらわれた。水明かりに透かして視ると、それは確かに人の影で、音羽の方角からふらふらと迷って来るのであった。
 長三郎は油断なく提灯をさし付けて窺うと、それは火の番の娘お冬で、さも疲れたように草履をひき摺りながら歩いて来た。
「お冬か」
 長三郎は思わず声をかけると、お冬はこちらを屹《きっ》と見たが、忽ちに身をひるがえして元来た方へ逃げ去ろうとした。その挙動が怪しいので、長三郎は直ぐに追いかけた。追い捕えてどうするという考えもなかったが、自分を見て慌てて逃げようとする彼女の挙動が、いかにも胡乱《うろん》に思われたからであった。
 疲れているらしいお冬は遠く逃げ去るひまも無しに、追って来る長三郎に帯ぎわをつかんで引き戻された。そのはずみに、彼女はよろめいて倒れた。
「なぜ逃げる。わたしを見て、なぜ逃げるのだ」と、長三郎は声を鋭くして訊いた。
 お冬は黙っていた。
「お前はこれから何処へ行くのだ」
 長三郎はかさねて詰問しながら提灯の火に照らして見ると、お冬は右の足に草履を穿《は》いて、左足は素足であった。片眼の女、片足の草履、それが何かの因縁でもあるように、長三郎の注意をひいた。
「おまえは片足が跣足《はだし》だな。草履をどうした」
 お冬は黙っていた。
 先日、水引屋の職人と一緒に藤助の家をたずねた時にも、お冬は始終無言であったが、今夜もやはり無言をつづけているので、長三郎はすこしく焦《じ》れた。
「え、なぜ返事をしないのだ。おまえは何か悪いことでもしたのか」
 長三郎はその腕をつかんで軽く揺り動かすと、お冬は地に坐ったままで男の手さきをしっかりと握った。
 前髪立ちとはいいながら、長三郎も十五歳である。殊に今の人間とは違って、その時代の人はすべて早熟である。若い女に、自分の手を強く握られて、長三郎の頬はおのずと熱《ほて》るように感じられた。
 彼はその手を振り払いもせずに暫く躊躇していると、お冬はいよいよ摺り寄ってささやいた。
「若旦那……。あなたこそ何処へお出ででした」
 今度は長三郎の方が黙ってしまった。
「あなたは誰かを探して歩いているんじゃございませんか」
 星をさされて、長三郎はなんだか薄気味悪くもなった。
 この女はどうして自分の秘密の役目を知っているのであろう。もう一つには、今頃こんな取り乱したような姿をして、どうしてここらを徘徊しているのであろう。彼は謎のような女に手を握られたままで、やはり暫くは黙っていた。

     一〇

 お冬は長三郎の手を固く握ったままで、更にささやいた。
「あなたの探している人は見付かりましたか」
 なんと答えようかと長三郎はまた躊躇したが、結局思い切って正直に云った。
「見付からない」
「教えてあげましょうか」
「おまえは知っているのか」
「知っています」
「ほんとうに知っているのか……。教えてくれ」と、長三郎は疑うように訊いた。
「あなたの探している人は……。御近所にかくれています」
「近所とは……。どこだ」
「佐藤さまのお屋敷に……」と、お冬は左右を見かえりながら声を低めた。
「佐藤……孫四郎殿か」と、長三郎は意外らしく訊き返した。「どうして知っている」
 それにはお冬も答えないので、長三郎は摺り寄って又訊いた。
「そこには幸之助と……。まだほかにも隠れているのか」
 自分の姉の名をあらわに云い出し兼ねて、長三郎は探るようにこう訊くと、お冬は頭《かぶり》をふった。
「いいえ、黒沼のお婿さんだけです」
 長三郎は失望した。勿論、幸之助の詮議も必要であるが、さしあたりは姉のゆくえを探しあてるのが自分の役目である。その姉は佐藤の屋敷にいないと聞いて、彼は折角の手がかりを失ったようにおもった。それでも再び念を押した。
「黒沼幸之助だけは確かに佐藤の屋敷に忍んでいるな」
「はい」
 長三郎は焦《じ》れて来たので、とうとう姉の名を口にした。
「わたしの姉のお北は一緒にいないのか」
「おあねえさんは御一緒じゃありません」
「姉の居どころをおまえは知らないか」
 お冬は又だまってしまった。あくまでも焦らされているように思われて、年の若い長三郎は苛々《いらいら》した。
「これ、正直に教えてくれ。頼む」
「お頼みですか」
「頼む、頼む」と、長三郎は口早に云った。
「わたくしもお頼み申したいことがありますが……」と、お冬は自分の顔を男の頬へ摺り付けるようにして、訴えるようにささやいた。
 もうこうなっては前後を省《かえり》みる暇もないので、長三郎は素直に答えた。
「おまえの頼むこと……。なんでも肯《き》いてやる。早く教えてくれ」
「では、一緒においでなさい」と、お冬は立ち上がった。
 彼女はやはり男の手を掴んで放さなかった。
 この上は彼女の心のままに引き摺られて行くのほかは無いので、長三郎も無言で歩み出した時、宵からの生《なま》あたたかい風が往来の砂をまいてどっと吹き付けた。その砂を顔に浴びて、男も女もあわてて両袖を掩《おお》ったので、繋がっている手と手が自然に離れた。長三郎の持っている提灯の火もあやうく吹き消されそうになった。
 その風のうちに、お冬はなんの音を聞いたのか、俄かにうしろを見返ったかと思うと、長三郎のそばを颯《さっ》と離れて、橋を南へむかって飛鳥のごとくに駈け去った。取り残された長三郎は呆気《あっけ》に取られて、再びそれを追い捕える気力もなく、唯ぼんやりと其のゆくえを眺めていると、やがて草履の音が北の方から近づいて、頬かむりをした男がうしろから彼に声をかけた。
「あなたはあの女とお知合いでございますか」
 相手が何者か判らないので、長三郎は突っ立ったまま睨んでいると、男は頬かむりの手拭を取って丁寧に会釈《えしゃく》した。
「わたくしは神田の三河町に居りまして、お上《かみ》の御用を勤めている吉五郎という者でございます。失礼ながらあなたは……」
 長三郎も黙っていられなくなった。
「わたしは音羽の御賄屋敷にいる瓜生長三郎……」
「はあ、瓜生さんの御子息でございましたか」
 丁度いい人に出逢ったと云うように、吉五郎は馴れなれしく摺り寄って来た。
「あの女は音羽の火の番の娘じゃございませんか」
 長三郎はうなずいた。
「御近所ですから、前から御存じなんでしょうな」と、吉五郎はまた訊いた。
「知っています」
「そこで、くどくおたずね申すようですが、今ここでどんなお話をなすったんでしょう。いや、こんなことを申し上げてはたいへん失礼でございますが、これも御用とおぼしめして御勘弁をねがいます。実は先刻あの女を取り押さえて、少々取り調べて居ります処へ、思いもよらない邪魔がはいりまして……」
 云いかけた時に、強い南風《みなみ》が又もやどっと吹き寄せて来て、二人の顔をそむけさせたが、その風のなかで何を見付けたのか、吉五郎はあわててふた足三足かけ出した。一羽の白い蝶が風に吹き揚げられたように、地を離れてひらひらと空を舞って行くのである。長三郎もそれを見つけて、思わずあっ[#「あっ」に傍点]と声をあげた。
「若旦那。つかまえて下さい」
 吉五郎はすぐに蝶を追った。長三郎も一緒に追った。しかも、あいにくに強い風が又吹き付けたので、蝶は橋の上から斜めに飛んで、川の上に吹きやられてしまった。
「水に落ちたかな」と、長三郎は提灯をかざしながら、残念そうに云った。
「そうでしょう。川の方へ吹き飛ばされちゃあ仕様がありません」と、吉五郎も残念そうに水の上を覗いていた。「しかし若旦那。あなたは何か御覧になりませんでしたか」
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