軍の食膳に上《のぼ》せるべき魚類、野菜類を取り扱う役で、魚類だけでも鯛の御納屋、白魚の御納屋、鮎の御納屋などと、皆それぞれの専門がある。この御納屋の特権は、良い魚類とみれば勝手に徴発《ちょうはつ》を許されていることである。御納屋の役人が或る魚を指さして、「これは御用だぞ」と云ったが最後、忌《いや》でも応でもその魚を納めなければならない。その代金も呉れるか呉れないか判らない。唯取りにされてしまう場合も往々ある。そんなわけであるから、河岸《かし》の人間は御納屋を恐れて大いに警戒しているのである。
 かの若い衆は、どこかの註文で大きい鯛を持ち出した途中、あいにく日本橋のまん中で鯛の御納屋に出逢ったのである。これを取られては大変だと思ったのか、あるいは権力を笠《かさ》に被《き》て強奪されるのを口惜《くや》しいと思ったのか、いずれにしても血気の若い衆は一尾の鯛を御納屋の手へ渡すまいとして、魚籠《びく》と共に川中へ飛び込んだのであろう。河岸の育ちであるから泳ぎも知っているであろう。殊に白昼のことであるから、溺死する気づかいもあるまいと、吉五郎は多寡をくくってさほどに驚きもしなかった。
 彼は身を投げた若い衆よりも、身を投げさせた相手に眼をつけると、それは四十前後の人柄のいい侍で、これも身投げの仔細をおおかたは察したらしく、微笑を含みながら見返りもせずに行き過ぎた。
 吉五郎は引っ返して、その侍のあとを追った。橋を渡り越えて室町《むろまち》のあたりまで来た時に、彼は小声で呼びかけた。
「もし、もし、今井の旦那……」
 呼ばれて立ち停まった侍の前に、吉五郎は小腰をかがめて丁寧に会釈《えしゃく》した。
「旦那さま。御無沙汰をいたして居ります」
「三河町の吉五郎か」と、侍は又微笑した。「今のを見たか。おれ達はどうも憎まれ役で困るよ」
 侍は鯛の御納屋に勤めている今井理右衛門であった。自分が何をしたという訳でもないが、自分のために若い衆が身を投げたのを、岡っ引の吉五郎に見付けられたかと思うと、彼はやや当惑に感じたのであろう、憎まれ役などと云い訳がましく云っているのを、吉五郎は軽く受け流してすぐに本題に入った。
「途中でこんなことをお尋《たず》ね申すのも失礼でございますが、あなたは吉田の旦那と御懇意でございましたね」
「吉田……。白魚河岸か」
「左様でございます。それで少々伺いたいのでございますが、この吉田さんは音羽の佐藤さんという旗本を御存じでございましょうか」
「音羽の佐藤……」
「昨年の秋ごろ、長崎からお帰りになりましたかたで……」
「むむ。佐藤孫四郎どのか。わたしもちょっと識っているが、吉田はよほど懇意にしているらしい。吉田の家内はなんでも佐藤の親類だとか云うことだから……」
「はあ、御親類でございますか。それでは御懇意の筈で……」
「なんだ。その佐藤に何か用でもあるのか」と、理右衛門は相手の顔をながめながら訊いた。
 吉五郎が唯の人間でないことを知っているだけに、彼は幾分の好奇心をそそのかされたらしくも見えた。
「いえ、別に用というほどの事でもございませんが……」と、吉五郎はあいまいに答えた。「先日あのお屋敷の前を通りましたら、吉田さんの御子息をお見かけ申しましたので……」
「次男の方だろう。あれは御賄組の黒沼という家へ急養子に行ったそうだから……」
「わたくしもそんなお噂を伺いました。いや、どうもお急ぎのところをお引き留め申しまして相済みませんでした。では、これで御免ください」
 ふたたび丁寧に会釈《えしゃく》して立ち去る吉五郎のうしろ姿を、理右衛門は不審そうに見送っていた。往来なかで人を呼びとめて、単にそれだけのことを訊《き》いて行くのは少しくおかしいと思ったからであろう。しかも吉五郎に取っては、吉田の家と佐藤の屋敷との関係を聞き出しただけでも、一つの手がかりであった。佐藤の屋敷の前で吉田の伜のすがたを見たなどと云うのは、もとより当座の出たらめに過ぎないのである。
 吉田と佐藤とが親戚の間柄である以上、吉田の次男幸之助がその屋敷へ出入りするに不思議はない。そうして、その屋敷にいるお近という女と親しくなったと云うのも、世にありそうなことである。唯その幸之助が留吉の虜《とりこ》とならずに、どこへ姿を隠したか、それを詮議しなければならないと吉五郎は思った。
 彼はそれから京橋へ足を向けて、白魚河岸の吉田の家をたずねた。勿論、玄関から正面に案内を求めるわけには行かないので、彼は気長にそこらを徘徊して、その家から出て来る中間や女中らを待ち受けて、いろいろにかま[#「かま」に傍点]を掛けて探索したが、幸之助は実家にひそんでいないらしかった。
「燈台|下暗《もとくら》しで、やっぱり佐藤の屋敷に忍んでいるかも知れねえ」
 吉五郎はいったん神田の家へ帰って、ゆう飯を食って更に出直そうとするところへ、留吉が忙がしそうにはいって来た。
「親分、出かけるんですかえ」
「むむ。今夜はおれが音羽へ出かけて、張り込んでみようと思うのだ」
「それじゃあ行き違いにならねえで好かった。実は又ひとつ事件が出来《しゅったい》してね」と、留吉は眉をひそめた。
「黒沼の家《うち》の娘が死んだそうで……」
「家付き娘だな」
「そうです。お勝といって、ことし十八になります。親父が死んで、幸之助を急養子にしたんですが、お勝は病気で寝ているので、祝言も延びのびになっているうちに、幸之助は家出をして帰らない。それがもとで、お勝は自害したそうです」
「自害したのか」と、吉五郎も少しく驚いた。
「短刀だか懐剣だか知らねえが、なにしろ寝床の上に起き直って、喉《のど》を突いたんだと云うことです」と、云いかけて留吉は声を低めた。「それからまだおかしいことは、黒沼のとなりの瓜生という家《うち》では、お北という娘が家出をしたそうです」
「幸之助が家出をする。女房になる筈のお勝という女が自害する。又その隣りの娘が家出をする。それからそれへと悪くごたつくな。それで、その女たちは、なぜ自害したのか、なぜ家出をしたのか。その訳はわからねえのか」
「なにぶん武家の組屋敷のなかで出来た騒動だから、くわしい事はとても判らねえ。これだけのことを探り出すのでも容易じゃあありませんでしたよ」
「そうだろうな」と、吉五郎もうなずいた。「そう聞いちゃあ猶さら打っちゃっては置かれねえ。御苦労だが、もう一度行ってくれ」
 ふたりが神田を出る頃には、ようやく長くなったという此の頃の日も暮れていた。しかも夕方から俄かに陰《くも》って、雨を含んだようななま暖かい南風《みなみ》が吹き出した。
「忌《いや》な晩ですな」
「忌な空だな。降られるかも知れねえ」
 暗い空を仰ぎながら、ふたりは音羽の方角へ急いでゆくと、途中から風はいよいよ強くなった。
「黒沼伝兵衛という侍が死んでいたと云うのは、どの辺だ」
「そこの寺の前ですよ」
 留吉が指さす方に或る物を見いだして、吉五郎は口のうちで叫んだ。
「あ、蝶々だ」
「むむ。蝶々だ」
 ふたりは白い影を追うようにあわてて駈け出した。

     八

 闇にひらめく蝶のかげを追いながら、吉五郎と留吉は先きを争って駈け出したが、吉五郎の方が一と足早かった。彼はふところから四つ折りの鼻紙を取り出して、蝶を目がけてはた[#「はた」に傍点]と打つと、白い影はそのまま消え失せてしまった。
「たしかに手応《てごた》えはあったのだが……」と、吉五郎はそこらを透かして見まわしたが、提灯を持たない彼は、暗い地上に何物をも見いだすことが出来なかった。
「そこらへ行って蝋燭を買って来ましょう」と、留吉は土地の勝手を知っていると見えて、すぐにまた駈け出した。
 寺門前には小さい商人店《あきんどみせ》が五、六軒ならんでいる。表の戸はもう卸《おろ》してあったが、戸のあいだから灯のひかりが洩れているので、留吉はその一軒の荒物屋の戸を叩いて蝋燭を買った。裸蝋燭では風に吹き消される虞《おそ》れがあるので、小さい提灯を借りて来た。
 その提灯のひかりを頼りに、ふたりはそこらの地面を照らして見たが、蝶らしい物の白い影はどこにも見あたらなかった。吉五郎は舌打ちした。
「仕様がねえ。風が強いので吹き飛ばされたかな。まさかに消えてなくなった訳でもあるめえ」
 と云う時に、留吉は声をあげた。
「や、飛んでいる。あすこに……」
 白い蝶は、三、四間|距《はな》れた所に飛んでいるのである。それを見て、吉五郎はまた舌打ちした。
「畜生。ひとを玩具《おもちゃ》にしやあがる」
 ふたりは直ぐに駈け寄ると、蝶の影は消えるように見えなくなった。
 留吉は提灯をふりまわして、しきりにそこらを照らして見たが、それらしい物の影もないので、彼は焦《じ》れて無闇に駈け廻った。吉五郎も梟《ふくろう》のように眼を見張って、暗いなかを覗いて歩いたが、それもやはり無効であった。
 往来の絶えた寺門前の闇のなかに、大の男ふたりが一生懸命駈け廻って蝶を追っているのは、どうしても狐に化かされたような図である。しかも今の彼等はそんなことを考えている暇はなかった。
「ほんとうに人を馬鹿にしていやあがる。忌々《いまいま》しい奴だな」と、留吉は息をつきながら云った。
 吉五郎も立ち停まって溜め息をついた。
 いかに焦《じ》れても、燥《あせ》っても、怪しい蝶はもうその影を見せないのである。ふたりはあきらめて顔を見合わせた。
「親分。どうしましょう」
「仕方がねえ。又どっかで見付かるだろう」
「これからどうします」
「むむ。おれの考えじゃあ……」と、云いかけて、吉五郎は俄かに見返った。「留。あれを取っ捉まえろ」
 見ると、うしろの寺の生垣《いけがき》の下に、犬か猫のようにうずくまっている小さい影がある。留吉は持っている提灯を親分に渡して、直ぐにその影を捕えに行った。影は飛び起きて、暗い坂の上へ逃げて行こうとするのを、留吉は飛びかかって押さえ付けた。吉五郎がさしつける提灯のひかりに覗いて見て、留吉はうなずいた。
「むむ。てめえか。このあいだからどうもおかしい奴だと思っていたのだ」
「おめえはその女を識っているのか」
「こいつは火の番の藤助のむすめで、お冬というんですよ」
「火の番の娘か」と、吉五郎もうなずいた。「おれもそいつを調べてみようと思っていたのだ」
「自身番へ連れて行きましょうか」
「いや、自身番なんぞへ連れて行くと、人の目に立っていけねえ。ここでおれが調べるから、おめえは提灯を持って往来を見張っていろ」
 吉五郎はお冬の腕をつかんで、寺の門前へ引き摺って行ったが、正面は風があたるので、横手の生垣をうしろにしてしゃがんだ。
「おまえは今頃なんでこんな所に忍んでいたのだ」
 お冬は黙っていた。
「おれ達は十手《じって》を持っている人間だ。おれ達の前で物を隠すと為にならねえぞ」と、吉五郎は嚇すように云い聞かせた。「そこでお前の親父はどうした。まだ帰らねえのか」
「はい」と、お冬は微《かす》かに答えた。
「ほんとうに帰らねえか。あすこの佐藤という旗本屋敷に隠されているんじゃあねえか」
 お冬はやはり黙っていた。
「お前はそれを知っている筈だ。おまえの親父は訳があって、当分は佐藤の屋敷に隠れているから心配するなと、お近という女から云い聞かされている筈だが……。それでも知らねえと強情《ごうじょう》を張るか。又そのお近という女は、ときどきにお前の家へ忍んで来て、黒沼の婿の幸之助と逢曳《あいびき》をしている筈だが……。それでもお前は強情を張るか」
 お冬はまだなんにも云わないので、吉五郎はほほえみながらその肩を軽く叩いた。
「おまえは年の割に、なかなかしっかり者だな。と云って、褒めてばかりはいられねえ。あんまり強情を張っていると、おれも少しは嚇かさなけりゃあならねえ。おまえは一体、なんでここへ来ていたんだよ。おまえにも色男でもあって、今夜ここへ逢いに来ていたのか」
 お冬はあくまでも強情に口を閉じていた。
「それとも俺たちの後を尾《つ》けて来て、何かの立ち聴きでもしようとしたのか。え、お
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